2024年5月26日
テモテへの手紙Ⅰ 6:11-16
「キリストは現わされる」
今日の礼拝には三位一体主日という名前が付いています。一般的な暦では一年の始まりは元日ですが、教会の暦ではアドベントが一年の始まりです。日本基督教団では聖霊降臨節が終わり、降誕前節が始まると聖書日課が切り替わり、新しい一年が始まります。降誕前節から待降節の間、つまりクリスマスまでの間は旧約聖書が主要な日課として説教の主題に用いられ、創造の御業から始まり預言者の活動に至る、神さまのこの世への働きかけがテーマとして説かれます。次いで、降誕節から復活節の終わりまではイエスさまの御降誕、地上での旅とその間に語られた教えや、イエスさまがなされた御業が主題として取り上げられます。そして、ペンテコステを境に聖霊降臨節が始まります。聖霊降臨節は教会の期節と呼ばれますが、この期間はパウロ書簡を始めとした使徒書が主題となります。
秦野教会では礼拝で新旧二つの聖書箇所が読まれています。旧約聖書は一年を通して常に読まれていますが、新約聖書は時期によって福音書が読まれたり、使徒書が読まれたりと変化します。その理由は、今申し上げた主要日課が期節によって変わるからです。
三位一体主日は、旧約聖書から始まった教会の一年において、父なる神さま、子なるキリスト、聖霊の三つの位格が揃った三位一体の神さまをたたえる日です。
先ほど、旧約聖書は創造の御業から預言までを記していると申し上げました。これは、言い換えるならば、元来罪なきものとして創られた人が罪に陥り、神さまから離れて悩む姿です。罪が極まった時、神の民は捕囚という苦しみを受けます。人も悩みますが、神さまも悩まれました。その結果、神さまは人の罪を限りなく赦そうと決心し、解放を宣言されます。これ以降、神さまは恐るべき力をもって人間を圧倒するのではなく、「羊飼いとして群れを養い、小羊を懐に抱き、その母を導いて行かれる。」とあるように、神さまへの信頼を失いかけた捕囚の民を温かく育もうとされます。
神さまの御心は、救い主として地上に遣わされた御子によって実現されます。御子は「私が父の内におり、父が私の内に居られる」と、父なる神さまとの親密な関係を繰り返し語り、また人々にもその関係の内に入るよう勧められ、弁護者である真理の霊が、いつも私たちと共に居てくださるようになると約束してくださいました。この真理の霊によって、私たちは創造主である神さまと、キリストなるイエスさまとの結び付きの中に居られるのです。
真理の霊はペトロ達を始めとした、キリストを信じる者たちに臨みました。使徒や初代教会の信徒たちは、イエスさまが天に昇られる時に約束された再臨の時を今か今かと待っていましたが、中々実現されません。期待が薄れ、神さまとキリストは再び遠い存在であるかのように感じられましたが、教会に集まる人々を励まし、導くために、信じる者たちの中から御心を伝える者を立てて各地の教会へ遣わされます。テモテもその中の一人です。パウロはテモテが遣わされるにあたって、礼拝の守り方や教会の組織、教会に対して責任を負う者の持つべき心掛けについて教えています。
パウロはテモテに「神の人よ」と呼び掛けています。これは、神の僕や遣わされる者を指す言葉ですが、ここで数えられている教えは決して、例えば教職や役員のような、一部の人々にだけ進められているわけではありません。正しさを求め、神を信じ、互いに信頼し合い、愛し合い、赦し合うという姿勢は全てのキリスト者に求められる生き方です。
信仰の戦いとは内なる葛藤です。私たちの心には絶えず葛藤が存在しています。自分を正しいものと考え、他者が自分と対立する時にはその人を正しくないと考える。それは誘惑です。
人間の目に見える正しさは相対的なものでしかないと私は考えます。Aさんにとっての正しさはBさんにとっても正しいとは限りません。自分を正しいもの、自分の考えを正しいと考えたがる人は少なくありません。正しさは私たちに安心を与えてくれるからです。自分は間違っていないと確認できた時、私たちは安心できるからです。しかし、「自分は間違っていない」ということと、「あの人は間違っている」ということは、必ずしも両立しません。例えばAさんの気持ちはよく分かるけど、しようとしている方法に問題があるなどという話は私たちの周りにいくらでも散らばっています。ある種の環境保護団体の主張と活動などは、その最たる例でしょう。主張や活動の方法論が排他的であった場合などには特にそう思わされます。
「あの人は分かっていない、まったくもう。」本当にそうなのでしょうか。「あの人は間違っている。」本当にそうなのでしょうか。「分かっていない、間違っている」と決め付けてしまう姿勢こそ、罪への誘惑です。互いへの不信や無理解の切っ掛けになってしまいます。頑なな姿勢は私たちを神さまの示される正しさ、互いへの信頼、愛、互いに赦し合う関係から遠ざけてしまうでしょう。私たちは自分の内に生じる独善的な思いを制御し、他者への理解に努めなければならないのですが、これは決して簡単ではありません。まさに戦いと言わざるを得ないような努力をしなければならないのです。
戦いが厳しければ厳しいほど、祈りが求められます。誰だって苦しい局面に一人で放り出されてしまったら頑なになってしまいます。そうしないと自分が潰されてしまうからです。誘惑に一人で打ち勝ち、なお為すべきことを完遂しなければならないのだとすれば、この戦いは絶望的としか言えませんが、真理の霊は祈りに応えて私たちの内に宿り、励まし、力付けてくださいます。それをイエスさまは私たちに身をもって現わしてくださいました。
イエスさまは捕らえられる直前に祈られました。ルカ22章43節では、祈りが終わると天使が現れてイエスさまを力付けたと記されています。イエスさまがピラトの尋問に対してもひるまず、かえってピラトをして「罪を見出せない」と言わせられたのは、祈りに応じて神さまが支えを与えられたからです。この支えが私たちにも与えられます。
私たちはイエスさまよりも有利な立場に居ます。イエスさまは一人で父に祈られましたが、私たちにはイエスさまが一緒に居てくださいますし、また霊によって結び合わされた仲間が祈り合う友として与えられています。
父、子、聖霊、この三つの位格が揃った時に私たちが見るのは調和です。全てが調和し、全てが満たされている状態。その時には何ものも私たちを悩ませません。苦しませません。
愛されるものとして創られたという喜び、いつでも導き、守ってくださる方が居られるという喜び、互いに愛し合えるという喜び、この三つの喜びがある時、私たちは神さまの御支配の中にあって神さまを賛美し、永遠の命への確信へと至るのです。
神さまは私たちを救われました。私たちは喜びの中に生きるのです。この喜びを世にあって高らかに歌いましょう。
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