2024年5月5日
ヨハネによる福音書 16:25-33
「世に勝つイエス」
聖書の描く人の歴史の中で、神さまと直接会った人が何人か登場しますが、モーセこそ代表的な人物と言えるでしょう。彼はシナイ山で神さまと対話をしました。山を下るとモーセは人々が金の仔牛の像を作ってこれを拝んでいる様子を見て、人々が犯した罪におののきます。彼らは山に登ったモーセがなかなか帰って来ないので、自分は見捨てられてしまったのではないかとの不安に負けて、つい金の仔牛の像を作ってしまったのです。この時、神さまは落胆なさったのではないかと思います。「わたしがひとときでも、あなたの間にあって上るならば、あなたを滅ぼしてしまうかもしれない。」との御言葉は、神さまがひどく落ち込まれた様子を表しているように思われます。
しかし、どれほど落胆されたとしても、神さまは人々を見捨てはしませんでした。「あなたをどのようにするか考えよう」と仰せられました。その後、モーセは天幕を建て、それを神さまと会見するための場としました。幕屋は人々の宿営から離れたところに張られていました。モーセは主に尋ねるべき何かがある時には、生活の場を離れて幕屋に入り、神さまが降りて来てくださるのを待ちました。神さまはモーセと親しく話をなさいましたが、人々はその様子を外から見るより他無く、降りて来られた神さまに対して起立して敬意を示し、その後は幕屋の入口でひれ伏して待っていました。罪は神さまと人との間に高い敷居を設けてしまったのですが、神さまは、モーセとの間に結ばれたような親しい関係を全ての人との間に結びたいと願っておられたのではないでしょうか。
神さまの願いが間もなく実現されようとしていました。御子が十字架に上る時が近付いていたのです。
これまでイエスさまは弟子たちとの旅の中で様々に御教えを説かれました。その御教えについて新共同訳聖書は「たとえ」という言葉を用いていますが、イエスさまの御教えは弟子たちにとって謎のようであり、直ちに正確に理解するというわけにはいかなかったので、その様子をイエスさまは「たとえ」と表現なさったのです。なぜ弟子たちには分かり辛かったのでしょうか。イエスさまが御教えの核心を隠されたのではありません。御教えを理解するためには、それを解釈する力を持つ聖霊が注がれなければならなかったのですが、まだ弟子たちには聖霊が注がれていなかったので、イエスさまの御言葉は弟子たちにとっては謎が多かったのです。聖霊が注がれさえすれば、弟子たちにもイエスさまの御心が理解できるようになります。その時には謎はありません。神さまがモーセと親しく顔と顔を合わせて語り合われた時のような、親密な交わりが実現されます。この時には何人と言えども神さまと人との間に入る余地はありません。イエスさまが仲立ちをしてくださる必要も、もうありません。仲立ちが無くとも、神さまの御心が分かるし、御心の通りに行えるようになるからです。
このような時の到来に私たちも憧れています。弟子たちもウットリと想像しながらイエスさまの語られるイメージを聴いていたのではないでしょうか。
「それがこれから実現されようとしているのは、私が父のもとから出て来たことをあなた方が信じたからだ。」との御言葉に、弟子たちは「私たちは信じています。あなたの仰ることは全て真実です。」と答えました。この答えは、とても良い答えだと思いますが、この時弟子たちはイエスさまの仰る意味をやはり完全には理解できていなかったと言わざるを得ません。もし理解できていたならば、この後弟子たちはイエスさまを置いて逃げ去ってしまわなかったでしょう。
翻訳は本当に難しいと思います。同じ言語を用いて話し合っても完全な理解は難しいのに、想いを持って口から出た誰かの言葉を、他の言語に置き換えるなど至難の業であるとしか言えません。新共同訳聖書では「ようやく今」と訳されていますが、これは良く言って「そのような訳し方も不可能ではない」という程度でしかありません。聖書協会共同訳では「今、信じるというのか」としか訳されていません。この時のイエスさまは、「お前たちは今こそ『信じた』と言っているが、決して本当の意味で信じているわけではない。その証拠に私を捨てて逃げ去ってしまう時が来る。しかし、それらの出来事の後に実現するであろう聖霊の到来、神さまが実現してくださる神と人との邂逅の時には、本当の意味で信じるようになる。」と仰っているのです。
イエスさまの御受難は、世間一般の感覚では敗北であるとしか思えません。信仰を持たない人々にとってイエスさまは人々の理解を得られず、裏切られて死んでいった敗北者としか思えないでしょう。そのような評価を受けるのが当たり前の方を私たちは勝利者と呼びます。何故かと言うと、御受難と、その後に起きた諸々の出来事は全てイエスさまの狙いの通りであったからです。イエスさまが裏切られ、苦しみを受け、死なれることで初めて実現される神さまと人との出会い、人が神さまとの直接の関係に復帰する、それこそがイエスさまの願いであり、弟子たちにとってはそれがまさに実現するから、私たちにとっては実現したから、私たちはイエスさまを勝利者と呼ぶのです。イエスさまは神さまが御傍に居られると確信し、苦難の道を歩み通されました。十字架に上られました。その御姿を通して私たちは神さまが私たちを赦し、招いておられると気付く。そして、その招きに応えて神さまに近付こうとする、御前に立とうとする。その時にはモーセが建てた天幕あったような隔ての幕はありません。イエスさまが十字架で息を引き取られた時、それは裂けてしまったからです。イエスさまの血によって罪を贖われた私たちは、もう恐れることなく神さまに近付き、御言葉を賜ることもできるし、私たちの思いを直接聞いていただくこともできるのです。イエスさまはその未来への確信を得ておられるから、御自ら「私はすでに世に勝っている」と宣言なさるのです。
信仰者の勝利とは何か。「あなた方が私によって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。」とイエスさまは仰いました。世の力が私たちを脅かす時もあります。世の力に負けそうになってしまう時もあります。それでもなお、私たちの信仰と希望を奪い取れるほどの力を世は持っていません。何故ならば、神さまの愛はどのような力によっても損なわれないからです。命を与える神さまの愛は何者によっても滅ぼされないからです。
神さまはイエスさまと共に生きる全ての人を平和と真実に導かれます。だから、確信をもって歩んで参りましょう。
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