聖霊降臨節第5主日礼拝説教

2024年6月16日

ヘブライ人への手紙 12:18-29

「揺れる地、揺るがぬ御国」

今日の御言葉において、「揺り動かされる物が取り除かれる。」そして「揺り動かされないものが存続する。」と筆者は語ります。この筆者が誰であるのか、今一つハッキリとしていません。伝統的にはパウロであると解釈されていますが、古代の神学者テルトゥリアヌスは「バルナバではないか」と言い、宗教改革の立役者ルターは「アポロではないか。」と考えています。この書物の著者の問題は古代から議論が続いていて、結論が出ていないのです。ただ、ハッキリしていることは、この筆者は旧約聖書について広い知識と深い理解があるということです。

今日、読まれた箇所で筆者は、モーセが十戒を与えられた場面を抜き出して描くことによって、福音を受け入れた人々が何を受け入れたのか、また受け入れられなかった人々はどうして受け入れられなかったのかということを対比して論じています。

18節から19節にかけての描写は、シナイの山中に入ったモーセに神さまが御姿を現された時の様子を再現しています。

モーセがシナイ山に上る際に神さまは彼に言われました。

「民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる。』」

神さまが御姿を現わされたシナイ山に入ることは、神さまが定められた時を除いては厳しく禁じられました。その禁止が告げられてから三日の後、神さまは雷鳴と稲妻と厚い雲を伴ってシナイ山の頂きに臨まれました。その時、角笛、ヘブライ人の手紙ではラッパとなっていますが、角笛の音が極めて力強く鳴り響き、これを聞いた民は震えました。この時、神さまに近付くことが出来たのはモーセだけでした。

ヘブライ人の手紙の筆者は読者に、ヘブライ人に、そして私たちに言います。「あなたがたが到達したのは、このような恐ろしげなものではない。」

なるほど、出エジプト記19章に記されています、神の臨在の場面を見ますと、神さまはとても恐ろしい方であるかのように思えます。何よりも神さまが御姿を現されるシナイ山に触れただけでも、それが人間であろうが獣であろうが殺されなければならないと厳しく禁止されているのですから、これでは恐ろしくて近寄ることができません。

モーセが神さまからの掟を頂くために山にこもって居る間に民は金の仔牛の像を作るという大きな罪を犯しました。民数記には神さまを牛の角に例える箇所が二つあること等から、仔牛の像は主なる神さまの御姿を模ったものであると考えられています。民が過ちを犯した原因の一つには恐怖がありました。彼らは雷鳴と稲妻の鳴りやまない山の中に入ったモーセが40日経っても帰って来ないことで恐ろしくなってしまったのです。民はモーセという目に見える指導者の姿が見えなくなったために恐ろしくなり、目に見える象徴を造り、それにすがろうとしたのです。

この時、神さまは激しく怒られました。葦の海で神さまはエジプト軍と戦われ、これを退けられました。マラにおいて苦い水を甘く変えて民に飲み水を与え、夕方にはウズラの肉を与え、毎朝マナを降らせ、民を養われました。これほど多くの恵みを与えられたにもかかわらず、民の信仰は容易に揺らいでしまい、目に見える像を求めました。民は目に見えない神さまを信じ切れなかったのです。

偶像は目に見え、手で触れられますが、いつかは朽ちるものです。実際、仔牛の像はモーセによって焼かれ、砕かれてしまいました。「しかし」と筆者は言います。「あなたがたが到達したのは、このようなあやふやなものではないのだよ。」と。

「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」

福音を告げ知らされた私たちが招かれたのは、そこに集まる人がことごとく喜びに満ち、神さまを賛美する天の集会、あらゆる人が赦されて、そこで平和のうちに暮らすことが出来る、そのような場所だと言うのです。

カインによって流され土に染み込んだアベルの血は、兄が弟に何をしたのかを神さまに叫び、罪を告発しました。それに対してイエスさまは、私たちの罪に赦しを与えるために血を流されたのです。私たちの聴く声は告発の声ではなく、赦す声です。筆者はここで、罪を厳しく糾弾し、それによって人びとを恐れさせるもの、しかも罪に苦しむ人を排除するものと、罪に赦しを与え人々を平安に招き入れるものとを対比したのです。

罪を知らせる声よりも大きな声で知らしめなければならないことがあります。それは罪の赦しです。御子は赦しを語られます。「語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。」と筆者は注意を促しています。

「もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。」

この筆者は極めて高いセンスを持っていると思います。「語る」と「告げる」。単純に申しますと「言っている」ということです。しかし、原典を見ますと、「語る」と訳されているのは「直接に語り掛ける」というニュアンスなのに対して、「告げる」の方は「指示を与える」と言うような、誰かが言っていることを取り次ぐようなニュアンスです。

日本語に訳した人も、その使い分けを上手に表していると思います。25節の冒頭にある「語っている方」に対しては「地上で御旨を告げる人」に用いる表現とは一段上の、敬意を込めた表現をしています。これによって、天上から親しく私たちに語り掛けて下さっているのがどなたなのかを私たちに悟らせます。

「天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは」とありますが、これは「もしも私たちが天から御旨を、赦しを告げる方に背を向けてしまったならば」という仮定の話です。「直接に私たちに語り掛けて下さっている声を無視するわけにはいかないよね。」と、こう言っているのです。律法は罪を語り、御子は赦しを語られました。

律法が地上にもたらされた時、それは大きな揺れを伴って現れました。次に御旨が語られる時には天をも揺り動かすとあります。そして、その時には「揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれる。」とあります。イエスさまによって福音が宣べ伝えられました。その時、揺り動かされるものは何でしょう。私たち自身が持っている固定観念、思い込みがそれであると私は考えます。

律法は人に要求をします。こうしろ、ああしろ。それは間違っている、こうあるべきだ。しかし、こういう要求は人を疲れさせてしまいます。律法だって、本来は良いものなのです。本当ならばその先に神さまの御姿が見えるはずなのに、律法の教えや勧めを誤って解釈すると、律法は人を疲れさせ、神さまの御姿を隠してしまいます。それが極みに達したのが、イエスさまが地上においでだった時代です。

教会はそうであってはなりません。御子は当時の常識を打ち破り、誰からも招かれない人々を食卓に招かれました。教会は御子の体として、天で約束されている集会、宴を地上にあって再現するために建てられています。そこに集う人々は、そこに招かれた事に喜ぶし、一人で喜ぶのではなくみんなでその幸いを喜ぶのです。その上で「天の様子がより良く伝わるように私たちをお用いください」と、自らを差し出しています。

差し出すのはなぜでしょうか。神さまに感謝しているからです。招いてくれてありがとう。来てくれてありがとう。顔を見せてくれてありがとう。わたしを見てくれてありがとう。互いへの感謝と愛、何よりも神さまからの愛と、それへの感謝、また神さまへの愛が、教会の中で揺るがぬ御国を再現するためのレンガの一個、釘の一本、柱の一本になる。それをこそ、その感謝と愛のレンガを、釘を、私たちがここに招かれ、入る時には持っていたいものです。

教会は、ここで御国を現したいと願うイエスさまの祈りによって建てられました。ここには私たちを招きたいと願う神さまの祈りがあります。金の仔牛は揺らぎますが、主の食卓は、主の食卓を通して私たちが見る御国は揺らぎません。多くの人とこの食卓を囲めるように祈りましょう。

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