聖霊降臨節第3主日礼拝説教

2024年6月2日

ローマの信徒への手紙 10:5-17

「御言葉はあなたのために」

私たちは神さまによって招かれた者の群れとして教会を形成しています。教会はイエスさまを信じる者の単なる集合ではありません。使徒信条においては「聖なる公同の教会」と表現されていますが、「聖なる」とはこの世から特別に取り分けられたものという意味があります。そして、公同とは普遍性を意味し、どこの教会に行っても同じように主日ごとの礼拝が守られているという意味を持っています。もちろん、礼拝の姿は教会によって違うものですが、根底の部分は共通しています。礼拝が決して失ってはならない要素が、どこの教会においても守られているので、どの教会の礼拝に出席したとしても、それぞれの場で同じように祝福に与れるのです。

では、礼拝において欠いてはならない要素とは何でしょうか。それは二つあります。一つは聖書の御言葉です。聖書が読み上げられなければ、それはキリスト教の礼拝とは断じて言えません。これは何があったとしても決して譲れません。もちろん、それに続く説教も大切な意味を持っています。しかし、説教は飽くまで聖書の御言葉に従うものです。強いて言うならば、とことんまで削ろうと思えば削れない要素というわけではないということです。逆に、聖書の御言葉は決して削ることができません。たとえ説教者がどれほど豊かに説教したとしても、その時聖書が読まれていなければ、その説教が聖書に基づいたものでなければ、それはもはや礼拝とは言えないのです。

そしてもう一つの要素、それは聖礼典です。礼拝では洗礼と主の食卓、つまり聖餐の聖礼典が取り行われます。

洗礼式については、志願者が与えられなければ執り行われませんが、聖餐はどうでしょうか。宗教改革の立役者の一人ジャン・カルヴァンは、プロテスタント信仰の基礎となる神学を構築した人物ですが、彼はその著書であるキリスト教要綱の第4編17章46節において、「少なくとも週に一回、キリスト者たちのために主の食卓が繰り広げられ、我々をそれによって霊的に養う約束が宣言されるべきである」と論じています。残念ながら、日本のプロテスタント教会においては、聖餐式の位置が不当に軽く考えられていると言わざるを得ません。

二十世紀の日本の偉大な神学者の一人に由木康という人物がいました。多くの賛美歌を残したことでも有名です。彼は早くからこの問題を、「神学的にはカルヴァン的であっても、リタージ、つまり礼拝においては全くツヴィングリ的であり、しかもそれがカルヴァン的だと思い込んでいるようなところがある」と指摘し、また「カルヴァンにとってはこの両者の分離は本来許されないことだったのである」とまでハッキリと述べています。

もっとも、由木康は「毎週、聖餐式を取り行うべきだ」とまでは述べていません。ただ、聖餐についての議論があって然るべきとだけ書いていますが、では、プロテスタント教会は聖餐式の持ち方について論じ合ってきたでしょうか。私たちが属する日本キリスト教団神奈川教区では、議論をしようというスローガンが掲げられたことはありますが、 実際に議論をしたという話は寡聞にして聞いたことがありません。

宣教、あるいは伝道とは、出来るだけ多くの人をイエスさまの御救いへと招くための働きです。それが言葉による働きであれば、宣教、例えば私のように説教したり、あるいは手紙を書いて「イエスさまは招いておられますよ、聖書の御言葉にはこのようなことが書かれていますよ」と伝えたりするのであれば、それは宣教と呼ばれます。それ以外の方法であれば伝道と呼ばれます。例えば、白百合幼児園のように、子どもたちに対して、日々の生活を通して、「神さまは愛してくださっているんだよ、一緒に喜ぼう」と伝える。それはまさに伝道ですし、あるいは病院や施設において、入院していたり、入所したりしている人たちに、「神さまは、いつも私たちと一緒に居てくださるのだよ」ということを示すために、その人たちに仕えるというのは、やはり大きな伝道の業と言えるでしょう。

そして、その伝道・宣教の目的は、先ほども申し上げました通り、多くの人を救いへと招くための働きですが、それを言葉だけではなく、共に体験するため、分かち合うための大切な時が聖餐式です。

聖餐とは、御救いに与っているという恵みを、互いに確かめ合う、互いに分かち合う場なのです。

ユダヤの人々にとっての救いの原点は、出エジプトの体験にありました。だから彼らは一年に一度、その体験を改めて追体験するために、過ごしの祝いを守るわけです。私たちもまた、今は月に一回ですけれども聖餐式を守っています。それはイエスさまが私たちの罪に赦しを与えるために、十字架の上で死んでくださった、血を流してくださったということを体験するためです。

ちょっと前までは年に三回しか聖餐式をしないというような教会もあったかと思います。少しずつ聖餐に対する捉え方が変わってきているのです。ゆっくりゆっくりとではありますが、変わってきています。その時に今、私たちは立ち会って居ると言って良いでしょう。

ユダヤの人々は、荒れ野を旅する中で与えられた戒めと掟を守ることが神の民である証であり、また神さまの導きによって幸せに至る道であると信じていました。しかし、この荒れ野の旅をスタートからゴールまで、最後まで歩み通した者がいたかと言いますと、残念ながら一人もいませんでした。モーセ自身、ゴールの手前で先を行く人々を見送りながら息を引き取っています。四十年にわたる旅の中で、神の民は世代交代をし、神さまが約束してくださったカナンの土地に入ったのは、旅の途中で生まれた第2世代の子供たちでした

荒れ野における四十年の旅、それは実は彼らの信仰にとっては一つの転換点だったのです。

さて、同じように転換点に立っている人物がもう一人います。パウロです。

イエスさまより後の時代、パウロは問いを立てて考えました。元はユダヤ教徒であった 彼は、ユダヤ教徒が大切に守っている律法を実行することによって、人は果たして幸せになれるのだろうか、安心して生きられるのだろうかと悩み続けました。その結果、ユダヤ人とは違う答えを導き出しました。

人は自分の行いによっては救いに至れない、安心はできない。どんなに罪深い者であったとしても、神さまは限りなく愛してくださると信じることによってのみ、人は安心して生きられる。パウロは人間の弱さを極めてシビアに見詰め、対決したのだろうと思います。

どれほど気をつけて生きたとしても、どれほど慎重に歩んだとしても、人は必ず悔やむべき過ちを犯してしまいます。ほんの小さな過ちでしかないかもしれません。ほんの小さな背きでしかないかもしれません。しかし、ほんの小さな背きであったとしても、私たちにとっては不安となり、重荷となり得ます。あの時、私が言ったあの言葉は、本当はとても大きな間違いだったのではないか。実は人を傷付けてはいなかっただろうか。そのように思った時、自分の行いによって、果たして私たちは救いに至れるかというと、絶望的な答えを見出さざるを得ないのです。

もちろん、神さまは私たちにガイドを示してくださいました。それが律法ですが、律法に対して誠実であろうとすればするほど、小さな背き、小さな過ちに気付かされ、気になって仕方なくなってしまいます。

想像してみましょう。背の届かない水の中を私たちは泳いでいます。波が来ると、私たちは一生懸命、波を乗り越えようと頑張ります。その時、律法に頼ったらどうなるでしょう。もがけばもがくほど、律法に頼れば頼るほど、律法への背きが明らかにされ、その背きは石のような重さを持って私たちの首に掛けられていきます。律法に頼れば頼るほど、その石は増えていって、私たちはその重さのために溺れそうになってしまいます。

目の前に筏が現れました。誰かが筏に登って、そこから私たちのために手を伸ばしてくれるでしょうか。誰もが自らの罪の重さのために、浮かんでいるだけで必死なのに、一体誰にそれができるでしょう。

では、いっそ誰かを水の底に沈めて、私たちの足台にすれば、筏に手が届くでしょうか。できるわけがありません。そんなことをしてしまっては、私たちは自分を許せなくなってしまいます。それでは、首に掛けられた石が決定的に重くなってしまいます。

人間にはとてもできない業、この筏の上に登って、溺れている私たちを引き上げる業をなしてくださった方が居られます。あるいは、私たちのために自らの命を捨て、水に沈んで、私たちの足台となってくださった方が居られます。神さまは、決して誰も乗れない筏を私たちの目の前に浮かべられるような方ではありません。誰もそれに与れない救いを私たちの目の前にチラつかせるような意地悪はなさいません。私たちが手を一生懸命に伸ばしても、御救いには届きません。しかし、だからこそ、神さまは御子イエスさまを遣わしてくださったのです。私たちがどんなに背伸びをしたところで、水の底に足は届きません。しかし、そんな苦しむ私たちを見て哀れに思われたからこそ、イエスさまを、御子をお遣わしくださいました。

御子は私たちの手を取り、御救いへと引き上げてくださいます。しっかりした土台となって私たちを立たせ、水の上に顔が出るようにしてくださいます。この時、私たちに求められているのは、自らが高みに登ろうとする努力ではなく、私たちに伸ばされているイエスさまの御手を掴むことです。誰かを踏み台にしようと躍起になるのではなく、イエスさまの御教えをこそ土台とすることが私たちに求められているのです。

この説教の冒頭で少しカルヴァンについて触れましたが、私はカルヴァン主義者ではありません。救われる者は予め決められているという、いわゆる二重予定説に対して、私は懐疑的だからです。

イエスさまは可能な限り多くの人々を救おうと手を伸ばしておられるはずです。その御業に加わるために教会は建てられ、その御業に仕えるために私たちは集められているはずです。

救われる者の人数が予め決められているのでは、一体私たちは何のために宣教、伝道をするのでしょう。イエスさまは頼れる方だと御言葉を通して知った私たちは、信仰を告白し、洗礼を受けました。私たちは選ばれた者だから、洗礼へと 導かれたのでしょうか。違います。私たちには気付く機会が与えられた、実にそれだけなのです。しかし、その機会が与えられたからこそ、私たちは信じて告白し、洗礼を受け、主の食卓を囲むべきものとされました。神さまは御救いを与える相手を限定されません。御救いは、あらゆる違いを超えて、全ての人々に開かれています。それこそが、何度も何度も世代交代を繰り返す中で、私たちに与えられた救いであり、それこそがモーセよりも前の時代から後の時代へ、イエスさまの前から後の時代へ、そして宗教改革の前から後の時代へと繰り返されていく世代交代の中で、私たちに示されたメッセージなのです。

御言葉は、あらゆる隔てを突破し、民族の違いをも超えて、全ての人に対して語りかけられています。私には関係ないのか。関係なくはないのです。私たち全てに関係があるのです。福音は、良い知らせはあらゆる境を越えて運ばれ、それを聞いた人々を一人の例外もなく、神の民として招きます。

より多くの人々と共に主の食卓を囲めるように願いつつ、日々の生活を通して喜びを受け、またその喜びを良い知らせとして、私たちの周りにいる人々に伝えましょう。

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