聖霊降臨節第6主日礼拝説教

2024年6月23日

エフェソの信徒への手紙 2:11-22

「架け橋となる十字架」

今日はヨナ書とエフェソの信徒への手紙が読まれました。ヨナ書は子どもにも強い印象を与える書物です。大きな魚に飲み込まれて三日三晩、魚の腹の中で過ごすというエピソードはユニークであり、ピノキオが鯨に飲み込まれるシーンのモチーフとなりました。

ヨナはニネベに遣わされました。ニネベはアッシリア帝国の首都で、当時は世界最大の年として栄えていました。この都の人々の心は悪で満たされていたため、神さまはこの町を滅ぼそうと考えられました。ただ、実際に滅ぼしてしまう前に神さまは誰かを遣わし、悔い改めを勧めようとなさいます。この時に使者として選ばれたのが、ヨナでした。

「悔い改めなければ、この都は後40日で滅ぼされてしまう。」という預言を聞いたニネベの人々は、悔い改めて自らの悪を嘆きます。これを御覧になった神さまは御考えを改め、ニネベの都は滅びを免れました。救われたニネベを見て、ヨナは何故か怒り始めました。人々が自分の声に耳を傾け、悔い改めたのですから、自分の努力によって多くの人が救われたのですから喜んでも良さそうなものですが、ヨナは怒ったのです。悔い改める都を憐れまれた神さまの決意を見てヨナは、自分の預言者としての存在意義を見出せなくなり、そのために怒ったのでしょう。

ヨナ書は、民族や国の境目を自由に超えて実現される神さまの大いなる救いと恵みの御業の前にあっては、預言者や伝道者の働きはささやかでしかないと伝えています。

教会は人の集まりです。毎週のように顔を合わせる私たちですが、元々は互いを知らない人々の集まりでした。私たちには当然に様々な違いがあります。違いを持つ人々が、救い主、キリストであるイエスさまを求めて集まっているのが教会です。イエスさまの架かられた十字架は私たちに違いを乗り越えさせます。現代は、それほど大きな違い、あるいは隔てを教会の中で感じる機会は無いと思いますが、パウロの時代にはとても大きな隔てがありました。それは、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間にあった、割礼の壁でした。

ユダヤ人の男の子は誰でも、生まれて7日目に割礼を受けていました。この割礼が神の民である証しだったのですが、異邦人キリスト者はこれを受けていませんでした。大人になってから割礼を受けるのは、医学が充分に発達していなかった当時にあっては大きな健康上のリスクが伴い、勧められたとしても直ちに決意できるような手術ではありませんでした。この肉体的な違いをもってユダヤ人キリスト者たちには異邦人キリスト者を蔑む傾向がありました。割礼を受けていない人々は神の民、聖なる民ではないと考えていたわけです。

「聖なる」とは、「特別に取り分けられた」、「分離された」という意味です。ユダヤ人が聖なる民である所以は、神さまとの契約にありました。

歴史の中でユダヤの人々には神さまとの契約が与えられています。例えばアダムとの間に結ばれた契約やノアとの間に結ばれた契約、アブラハムとの間にも契約が結ばれました。最も大きな契約としては、出エジプトの旅の途中、シナイ山でモーセとの間に結ばれた契約があるでしょう。これらの契約はユダヤの民との間に結ばれた契約で、これらの契約によって神の民となった証しとして、ユダヤの人々は律法を持っていました。律法を守る人が神の民であり、これを守らない人は神の民ではないとユダヤの人々は考えていました。律法を守る者である証が割礼でした。

これは一見、神さまと人との関係が契約を結んだ者たちとの間に限定され、閉鎖されているかのように思えますが、決してそうではありません。それどころか、神さまとの繋がりは世界に広げられるべきでしたし、それを求める人には開かれていました。実際、ヨシュア記にはギブオンの町の人々が服従を申し出、それ以来イスラエルの民に仕えるようになったと記されています。ギブオンの人々は最初こそ奴隷として仕えていましたが、後には預言者を輩出し、またバビロンからの帰還に際してはエルサレムの城壁の再建に協力するなど、決して軽くない立場を得るようになっています。

このように、歴史全体を眺める視点から救いの御業を見ると、神さまは人と人との間に隔ての壁を設けず、人間が自分たちの間に壁を作っていることに気付かされます。私たちは救いを求める人を喜んで受け容れるべきです。その人がどのような出自を持ち、どのような経歴を持っていたとしても迎え入れるべきです。仮に過去に何か好ましくない出来事があったとしても、何よりもまずその人が御救いを求める者となったという変化を喜ぶべきなのです。

このような変化は私たちの内面にも見られます。神さまの御心に従いたいと願う心と、背いてしまう心、御心に適わぬ心とが私たちの内には存在しています。背く心に直ちに気付いたならば、それはそのような思いが発生した瞬間から私たちにとって嘆きとなるでしょう。気付かぬうちに生まれ、しかもそれに従ってしまったとしたならば、気付いた後になって嘆きとなるでしょう。私はそれを「神からの乖離」、神さまに背き、離れてしまった状態であると考えています。そのような時、私たちは自分を責めます。まるで自分の中に二人の人が居て、一方が他方を非難しているような状態になってしまいます。

確かに背きの心は望ましくありませんが、このような心の存在を否定し、自分の内から追放するべきではないと考えます。そのような心、弱い心も私たち自身だからです。背きの心を否定するのではなく、その存在を認め、神さまに憐れみと救いを求めて祈るのが、私たちにとって必要な生き方なのだと思います。悔い改める他者を受け容れるのと同じように、悔い改める自分自身を受け容れ、造り変えてくださいと神さまに願って祈るのです。

パウロはエフェソの人々に「キリストは二つのものを一人の新しい人に造り変えて平和をもたらして下さる」と書いてあります。

神さまへの背き、自分の罪深さに気付いた時、私たちの心は平和を失い嵐のようになってしまいます。救い主イエスさまは私たちの罪を贖い、赦すために十字架にのぼってくださいました。十字架の横木は人と人とを結んでいます。イエスさまの流された血のゆえに私たちには違いを持つ人と分かり合うための道や、自分の内面にある二つの心の統合が、自分を受け容れる可能が示されました。この御救いは私たちの心の波を静めます。十字架の縦の木は、神さまとの間に掛け橋となります。十字架を通して私たちは神さまに近付き、神さまは私たちを平安の内に迎え入れて下さいます。

この十字架を心に頂く時、私たち自身が御言葉を収めた神殿となり、神さまと共に住まう者となるのです。

人を責めないでください。また自分を責めないでください。私たちは祈る者として創られました。私たちは誰とでも共に祈ります。私たちの内にある良い心もそうでない心も、御救いを求めて祈るです。

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