聖霊降臨節第7主日礼拝説教

2024年6月30日

使徒言行録 9:36-43

「ペトロに託された力」

1522年3月9日、スイスのチューリッヒにある印刷工場に十数人の男たちが集まりました。集まっていたのは印刷職人と二人の聖職者でした。二人の内の一人はツヴィングリという司祭でした。この男たちは、なんとソーセージを食べてしまったのです。

ソーセージを食べて何が起きるのかと思われるでしょう。問題は食べた時期なのです。この日はレント、つまり受難節が始まる最初の日曜日でした。レントの期間中はイエスさまの御苦しみを思い節制をするのが慣習となっています。今でもレントの間に断ち物をする人は少なくありません。私も秦野教会に赴任するまではレントの期間には節制をしていました。

当時は宗教改革が始まったばかりの時期でしたので、キリスト者のほとんどはカトリック教会に属していました。今でもそうですが、カトリック教会ではレントの期間中は肉食を避けます。従って、レントの最初の日にソーセージを食べるのは教会に対する反逆でした。

今の私たちにとってこれは随分と小さな反逆だと思えますが、この事件の知らせはあっという間に広がっていました。これはわざと言い広められたのだろうと思います。何故ならば、司祭であるツヴィングリはこの行為を通して自分の主張を世に広げようとしていたからです。

彼は自分たちの行為を神学的に正当化するため、事件の2週間後になされた説教において、「聖書には食事の内容に関する規則は存在しない。故に断食を破るのは罪に当たらず、教会は罰を与えられない。断食はしたい人がすれば良く、するかしないかを選ぶ自由は教会にではなくキリスト者自身にある。」と説きました。

説教の内容は理解できるのですが、ツヴィングリのやり方は嫌いです。事件の当事者の内、ツヴィングリだけはソーセージを食べなかったからです。やるのであれば、彼が率先して食べるべきでした。事件のおよそ一か月後である4月7日には司教によって派遣された人々が到着し、事件の当事者に対して処罰を求めましたが、ツヴィングリは当事者を擁護しています。司教の派遣団とチューリッヒ市参事会は断食を破った者たちに有罪判決を下しました。ただし、市の参事会はこれを暫定的な判決とし、教会に対して最終的な判断を求めたとのことですが、その結果についてまでは残念ながら調べられませんでした。ツヴィングリは自分を誰からも批判を受けなくて済む立場に置いたまま他者に罪を犯させて、それを自分の主張に使ったわけです。このようなやり方を私は好きになれません。自分の信仰を証ししたいのであれば、誰もが受け容れられるような方法を選ぶべきです。

その点においてヤッファのタビタは誰からも信頼され、愛される人物であり、彼女の生き方は真に神さまの愛を証ししていたと言えます。

ヤッファはイスラエルの地中海沿岸にある町です。数々の良い行いや施しをしていた人であったとありますが、これは教会によって任された仕事だったのかもしれません。彼女はとても深い洞察力と熱心さをもって、貧しい人々、とくに身寄りのない女性たちを支えていました。しかし、彼女は病気になって死んでしまいました。ちょうどその頃、ヤッファから少し離れた町であるリダにペトロが来ており、癒しの業を行っていたので、彼女の死を悲しんだ人々はペトロに来てもらえるように頼みました。タビタのために不思議な業を行ってほしいと願ったのでしょう。

ペトロが到着すると女性たちはタビタの遺体を安置してある部屋に彼を通し、これまでタビタと一緒に作った数々の品物を見せます。新共同訳では「ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着」とありますが、ここは「ドルカスと一緒に作った」とも訳せます。タビタは貧しい人々に物を与えたのではなく、一緒に作ったのです。そして今、手元にあってペトロに見せている品物は自分たちのために作ったものであったでしょうが、ここには居ない人たちのために分け与えた物も多くあったでしょう。タビタは一方的な施しをしていたのではなく、それが可能な人に対しては自立の手助けをしていたのです。そして、他者を助ける喜びをも分かち合っていたのです。

私が感心したのは、彼女が作った品物の中に上着があるという点です。単に労働をし、食べるための生活を送るだけならば下着だけで充分でした。下着と言っても今でいうパンツとシャツというわけではありません。労働者にとっては仕事着となり得る衣服をここでは下着と言っているのですが、タビタはこれに加えて上着をも分け与えています。上着は言わばフォーマルな服装です。公の場や畏まった場に出る際に必要になる衣服です。上着が有れば、どこに行っても恥ずかしい思いをせずに済みます。どこにだって堂々と出掛けられます。タビタは貧しい人々や身寄りのない女性たちの生活だけでなく、尊厳をも守ろうと、支えようとし、他者を助ける喜びをも分かち合おうとしていたのです。

タビタはこの支援を何か別の目的のためにしていたわけではありません。痛みを覚えている人は敏感です。自分が利用されているような臭いを嗅ぎ取ったならば、ただちに気付きます。そのような人からの支えに対しては感謝こそすれども、その人を愛せるかと言うと微妙なところでしょう。タビタはやもめたちの生活を支えるだけではなく、人間らしい心を与えました。彼女たちは貧しいかもしれないけれども、助け合い、生きてきました。タビタとやもめたちとの間には真の愛がありました。今タビタのために集まり、泣いている人々は心から彼女を愛したからこそ、今やもめたちは希望を見失っています。

ペトロは人々を外に出し、祈ってからタビタの遺体に「起き上がれ」と命じます。すると彼女は目を開いて起き上がりました。ペトロが不思議な力を用いたからタビタは起き上がったのでしょうか。彼女を生き返らせる力をペトロは持っていたのでしょうか。

神さまの御力がペトロを通して働いたのです。

ペトロは祈りました。タビタのために、ヤッファのやもめたちのために神さまに祈りました。ペトロに託された力とは、不思議な業を用いる力ではなく、救いを求める人たちのために神さまに祈る力、神さまを信じ、寄り縋る力なのです。力を発揮されるのは神さま御自身なのです。

ホセア書を見てみましょう。預言者を通して神さまは私たちに立ち返りを求めておられます。自分の力や知恵に頼るのではなく、神さまの御力をこそ求めよと勧めています。3節では「良いものを受け取ってください」と祈れと命じています。私たちが捧げられる良いものとは何でしょうか。捧げものとは献金ではありません。それにも優る捧げものが私たちに今日示されました。それは、誰かのために注がれる心からの愛と、祈りです。自分の目的のためになされる行いや、自分の満足のためになされる行いではなく、その人のために心から捧げられる愛と祈りに基いた業こそ、最良の捧げものなのです。

神さまは誰かのために注がれた私たちの愛を良いものとして受け容れてくださいます。私たちが捧げた以上の愛をもって私たちの心を、あたかも渇いた土を潤すように満たしてくださいます。その愛に私たちは根っこを張って、神さまを賛美します。そして、8節に「人々は帰って来て、その陰に宿る」とあるように、私たち姿を見た人々までも愛で満たされます。

ヤッファの人々にも同じ恵みが与えられました。タビタを生き返らせられた神さまの御力は町全体に広がり、多くの人々がイエスさまを信じる者となりました。

ツヴィングリは確かに宗教改革において大きな働きをなした人物ですが、誰かにソーセージを食べさせて自分の主張を広げるようなやり方を私たちは選べるでしょうか。私たちはタビタに倣うこととしましょう。

人を深く愛し、愛し合う。その人の心を支え、互いに支え合う。そのようでありたいと願う時、神さまは私たちを通して御力を現わしてくださいます。

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