2024年6月9日
ヨハネの手紙Ⅰ 2:22-29
「命の道」
別れには様々な形があります。名残を惜しみながらの別れもあれば、厄介者から離れる時のようにせいせいした思いをするような別れもあります。それがどのような形の別れであったとしても、別れは私たちに何等かの痕跡を残します。時には「これで良かったのかな」と、後になって悩むような別れもあります。ヨハネの手紙は、別れを経験した教会に宛てて書かれた手紙です。
この手紙が書かれた当時は、キリスト教が信仰の基礎となる教理を確立していく時代でした。イエスさまの御教えやパウロの神学とそれらへの解釈が整理され、教理が出来上がっていく、まさにその途中の時代です。この時、イエスさまの本質をどのように理解するかという問題が、最も大きなテーマの一つとして存在しました。
私たちは、イエスさまこそ神の御子であり、しかも真の人として受肉なさったと信じているわけですが、この当時の人々の中には、イエスさまを神の御子とは考えない人たちや、それとは逆に神の御子なのだから人間ではないと考える人たちも居ました。
ヨハネの手紙を受け取った人々もまた、そのようなそのような議論をしながら今に続く教理を持つ教会に合流、一致していきましたが、その前の段階で内部分裂を起こし、一部の人々が教会から去って行きました。今日読まれました箇所は、その去って行った人々との関係が主題です。
著者は、去って行った人々を「偽り者」と呼んでいます。「偽り者」という言葉は、あまり耳に馴染みが無いと思いますが、これは欺く者ですとか嘘つきというような意味合いです。この人々は、イエスさまがメシアであることを否定する者に他ならないと書かれています。メシアとは救い主を指す言葉ですが、語義的には油を注がれた者という意味です。
旧約聖書を見ますと、油を注がれた者には神さまの霊、つまり聖霊が降る様子が描かれている箇所をいくつか見付けられます。例えばダビデはその代表と言えるでしょう。ダビデが油を注がれた際には、まず預言者サムエルに神さまが語り掛け、この若者に油を注げと命じられました。ダビデは神さまに選ばれ、油を注がれます。すると神さまの霊が激しく降るようになったとサムエル記には記されています。
イエスさまにも聖霊が降りました。イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになると、天が開けて霊が鳩のように下って来たと、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は記述しています。ですから、明らかにイエスさまは神さまに選ばれた方であり、聖霊をお受けになったメシアです。
また、ヨハネの手紙とヨハネによる福音書には構成に類似点が多いことから、ヨハネの手紙はヨハネ福音書を前提として書かれたと考えられています。ヨハネによる福音書を見ますと、冒頭でイエスさまが神の独り子であると明らかに記されています。ヨハネの手紙の著者も、読んだ人々も、それは共通認識として持っていたはずなのですが、ある人々はイエスさまが神の御子であることを否定しました。
ヨハネはこれらの人々について、「御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていない」、また「御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれている」と言いますが、これは神さまと深い関りを持つ、神さまとの関りの内に居るという意味です。
確かにその通りでしょう。神さまは人々を愛され、救おうと望まれ、独り子を地上に遣わされたわけですから、イエスさまを神さまの独り子であると認めなければ、それはつまり神さまの愛を否定するか、良く言って疑問視するという姿勢であると言えるでしょう。
イエスさまを救い主であり、神の独り子であると信じ、公に告白する。その大切さを述べた上で、著者は私たちに「初めから聞いていたことを心の内に留めなさい」と勧めます。初めから聞いていたこととは、福音に他なりません。イエスさまの御教えであり、あなたを救った御言葉です。そして、この御言葉、福音は私たち一人ひとりにとっても、私たちの群れである教会にとっても原点です。
福音とは何だったでしょうか。イエスさまは地上において、どのようにして人々と接し、何を教えられたでしょう。誰もが愛されている。誰もが許されている。分離や分裂ではなく、誰をも仲間外れにせず、誰とでも共に食卓を囲む。誰とでも神さまからの恵みを分かち合う。共に食卓を囲む全ての人の思いを大切にし、ひとつとなる。それこそが、イエスさまによって宣べ伝えられた福音であり、私たちの立ち返るべき原点です。その原点を心に留めていれば、御子と御父の内に留まり、神さまからの愛を受け、また私たちも愛を行う者とされるのです。
著者は、「これこそ、御子が私たちと交わされた約束、永遠の命である」と述べます。永遠の命とは何でしょう。ヨハネによる福音書には、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。私はこれを「尽きぬ希望」であると理解しています。それは、世界への希望であり、他者への希望であり、自分への希望です。希望の反対は絶望です。絶望とは、自分を含めた世界を愛せない状態であると考えます。人々を愛せず、自分を愛せず、自分が愛されていると信じられない、感じられない状態が絶望であるとするならば、希望とは、「世界は私を愛している。私も世界を愛し、自分を愛している」と信じられる状態でしょう。私たち一人ひとりを救った御言葉、福音に留まるならば、この永遠の命を、自分を含めた世界に対する愛を保ち続けられるのです。
続いて、26節では「あなたがたを惑わす者たち」とあります。これは人々を間違った方向に導く人々についての記述ですが、ここで注目すべきは、この「惑わす」という言葉が現在形である点です。つまり、この手紙を読んだ教会は、かつて袂を分かった人々との間に何らかの交流を保っているのです。もしかすると、直接の交わりではなかったかもしれません。手紙のやり取りだったり、互いに噂を聞いたりという程度だったかもしれません。どのような交わりであったとしても、その交わりの時に存在が想像されるのは痛みです。
もともとは同じようにイエスさまに救われ、一緒に祈っていた仲間との別れ。顔を思い浮かべると、その時の痛みを思い出してしまいます。顔を合わせる機会が無かったとしても、昔のことを思い出すと別れた時の痛みが蘇ってきて、教会に残った人々は悲しみます。自分を責めてしまう時もあるかもしれません。
「別れなければならないとしても、あのような形しか無かったのだろうか。もっと良い道があったのではないか。本当は別れなくても良かったのではないか。」等、様々な思いが沸き上がります。
ヨハネによる手紙の特徴は、教会から出て行った人々のキリスト理解を否定しながらも断罪はしていないという点にあります。確かに「もともと私たちの仲間ではなかった」と厳しい言葉を用いてはいますが、それは最初の段階で既に福音への理解、アプローチの仕方に違いが見えていたという意味であって、責めるような意味合いまでは持っていません。反キリストという言葉は、現在ではまるで悪魔の代名詞のように理解されていますが、この言葉が選ばれた理由も「油」(χρῖσμα)という言葉との語呂合わせでしかありません。著者は教会から出て行った人々に対して敵意を持っていないのです。この手紙を受け取った人々は、まだ分裂の時の混乱や動揺から立ち直っていません。著者は、悩む人々への慰めや励ましだけを書いています。
あなたを救った御言葉は、あなたの内に今も在り続けているよ。あなたが救われた時に注がれた聖霊は、今もあなたの内に留まり続けているよ。あなたの内にあって語り掛ける声に耳を傾けなさい。そうすれば、あなたが何をすべきか、誰かから教わらなくても自ずと分かるはずだ。
本当は私たちには分かっているのです。何をすべきなのか、何を言うべきなのか、分かっているのです。内なる声が教えてくれているから。でも、それができないから悩むのです。そんな私たちを神さまは支え、励ましてくださいます。
この世にあって姿を変えないものなどありません。人と人との関係も、姿を変えます。しかし、姿が変わったからと言って関係を断ち切る必要は、本当は無いのです。
私が木工職人だったころ、ある人に散々悩まされました。彼は私を目の敵にしていました。その人は攻撃的で、ちょっとした切っ掛けを見付けては暴力を背景にして私に臨むので、私にとってその人は苦痛を形にしたような人でした。その人と離れた後になっても、しょっちゅう思い出しては不快になったものです。思い出したくなくても、今でも時折思い出しては不快になります。それほど傷が深いのだろうと思います。今日、この説教を準備しながら、考え方を変えてみようと思いました。彼のために祈ってみてはどうかと。直接の関係は望みたくありませんが、彼について祈れば、その祈りが私を癒してくれるのではないかと思うのです。
神さまは私たちを愛し合う者として、互いに祈り合う者として創られました。イエスさまは私たちに分裂ではなく、一致を望んでおられ、御自身がお手本となってくださいました。直接的な一致は望めなかったとしても、祈りによって繋がろうとするならば、その祈りに応えて私たちの内に注がれた聖霊が私たちの痛みを癒してくださると、私は信じます。
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