聖霊降臨節第9主日礼拝説教

2024年7月14日

使徒言行録 27:33-44

「難破と上陸」

今、パウロの乗った船は嵐に遭遇しています。

異邦人への宣教を行っていたパウロはユダヤ人たちによって訴えられました。そこでパウロは皇帝に上訴することを宣言しました。このためパウロは今ローマに向けて護送されています。この時代、地中海世界では移動手段として陸路の他に船旅を選ぶこともできました。陸路ですとユダヤからローマまでが概ね50日前後かかるのに対して、船旅ですと風さえ良ければ10日かからないくらいでローマに着きました。ローマの治安担当者としては護送中の容疑者に逃げられてしまっては問題ですので、出来るだけ短時間でローマに到着する海路を選ぶのが自然な選択だったのでしょう。

もっとも、この旅では風に恵まれませんでした。出港直後から向かい風に悩まされましたし、恐らくは無風であったのではないかと想像させるような記述も散見されます。時期的にローマ行きの航海には適していなかったのでしょう。パウロは護送を担当していた百人隊長のユリウスに、この航海は危険であると忠告をしましたが、彼はパウロの言葉を信じませんでした。クレタ島のフェニクスという港で風待ちをしていると、良さそうな風が吹いて来たので、一行は錨を上げて船出をしました。

しかし、船は間も無くエウラキロンという暴風に巻き込まれて、漂流を始めます。船乗りにとって、時化はとても恐ろしいものです。熟練した船乗りであれば怖くないのではないかと思われるかもしれませんが、逆です。熟練しているからこそ、時化の恐ろしさを良く知っているのです。

船は大きく揺れました。舳先の方では特に上下の揺れが激しくて、舳先が上がる時には空中に投げ出されてしまいそうになります。舳先が下がる時には、自由落下の状態になります。油断をするとたちまち海に放り出されてしまいます。

パウロが乗っていた船には276人の人が乗っていたとありますから、当時の船としては大きな船でした。とは言え今の鉄の船とはわけが違います。大きな波が甲板を洗い、海水が船体に流れ込みます。帆は破れることを防ぐために、早々に畳まれているでしょうが、帆桁を操るロープは強い風によって切れそうになったことでしょう。実際に切れたかもしれません。

舵も人間の力で操る単純な板、長い柄の付いた板ですから、波に揉まれるとたちまち壊れてしまいますし、波の力で暴れると柄が人を撃つかもしれません。それを防ぐために、舵はロープで固定されました。

船乗りたちは必要な措置を取るためにてんてこ舞いです。船の知識を持っていない乗客たちも、ブルブル震えているだけでは済まされません。手分けをして船体に流れ込んだ海水を、水汲に使えそうな道具を使って掻い出します。全員が総出で船を守ろうとしたに違いありません。パウロ達は体を横たえる暇も無いような恐ろしい時を14日も過ごしていました。

きっと波が何かにぶつかって砕ける音を聞いたのでしょう、船員たちは船が陸地に近付いたように感じました。本当かどうか確かめるために海底までの深さを測ってみますと、深さは37メートルでした。もうしばらくしてからまた測ってみますと、27メートルでした。確かに船は陸地に近付いているようです。

船乗りたちは船が夜の間に急速に動いて暗礁に乗り上げてしまうことを恐れました。明るくなるまでは船足を遅くしようと考えて、船尾から錨を四つ降ろしました。ところがこの時、船員たちの心がバラバラになってしまったのです。

陸地に近付いているのだから、自分たちだけでこの沈みかけた船から脱出しようと考えた人たちがいたのです。彼らはこっそり小舟を降ろして、陸を目指そうとしました。これに気付いたパウロは百人隊長に言います。

「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」

それがどのような理由から言われた言葉だったのかはハッキリとはしませんが、私はパウロのこの意見に同意します。まだ波が収まっていないのに小舟で漕ぎ出すなど、危険極まりないことです。なにより、船はチームワークで動かす乗り物です。船はそれを操るみんなの心が一つになっていなければ、まともに走らせることすら難しい、まして時化を乗り越えることなど到底出来ない乗り物です。

百人隊長は小舟を繋いでいたロープを断ち切りました。脱出しようとしていた船乗りたちは希望が断たれたかのように思ったことでしょう。

夜が明けかけた頃、パウロは皆に食事をするように勧めました。まだ嵐が収まったわけではありません。揺れる船の上で、パウロは皆に食事を勧めました。

寒さと飢えは、その片方でさえ人間を容易に絶望へと落としてしまいます。まして両方が同時に襲い掛かる時、その力は途轍もなく強く人間を絶望へと追いやります。彼らは14日もの間、海水を被り続けて来ました。夏でさえ濡れた衣服を着ていると体は冷えてしまいます。彼らは14日もの間、飢えに加えて寒さにも苛まれていたのです。

あなたが飢えて凍え切っている時に、一杯のスープを与えられたと想像してみてください。それが例え具の無いスープであったとしても、ホッとしませんか。

パウロが用意できたのは温かい食事ではありませんでした。それでも、身を寄せ合って皆で一緒に食べるということが、希望の言葉と共に分かち合って食べるということが、凍えていた彼らを元気づけました。何よりも、その食事には祈りがありました。パウロはパンを取り、感謝の祈りを献げた後、これを裂いて分け合いました。この時、パウロは一体どのような祈りを献げたのでしょうか。きっと一緒に食事をできることを感謝し、この食事によって一致して困難に立ち向かえるように、力を与えられることを願って祈ったのでしょう。

小舟を流されて絶望していた船乗りたちも、食事によって元気になりました。分裂しかけていた276人は、希望を新たにして、考え得る最善を、生きるための努力を一致して再開しました。

船を出来るだけ陸地へ近付けるために、荷物を捨てて吃水、つまり船体のうち水の下に浸かっている部分を浅くしようと積荷を海に投げ捨てました。努力を続ける彼らの上に朝日が昇りました。そして彼らは陸地を、砂浜を見付けたのです。

彼らはそこに船を乗り上げるために、船足を止めていた錨を切り離しました。舵を縛り付けていたロープを緩め、帆を上げて船を自由に動かせるようにしました。それでも海水が入り込み、水船となっているこの船は、決していつもほど自在に動かせるわけではなかったのでしょう。船は浅瀬に乗り上げてしまい、動かせなくなってしまいました。

嵐の去った後、例え空が晴れていたとしても波は残るものです。大きな波が座礁した船体を叩き壊してゆきます。しかし、とにかく船は陸地に近い所にまでたどり着きました。泳いで上陸することも出来るくらいの近さです。彼らは助かったのです。

それなのに、兵士たちには新しい心配が生じていました。このまま、もし囚人たちが泳いで逃げ出してしまったりしたならば、その責任を問われて処罰されるかもしれない、そのことが心配だったのです。そこで、囚人たちを逃がすよりは殺してしまった方が良いと兵士たちは考え始めました。

兵士たちの考えを聞いた百人隊長は、彼らの計画を思い止まらせました。パウロを死なせたくなかったのです。この旅の始め、百人隊長はこの船旅は危険だと忠告するパウロの言葉に耳を貸しませんでした。彼にとって、パウロは関係の無い人だったのです。その他の囚人と同じか、あるいは妙な主張をする面倒臭い囚人と言ったところでしょう。良い感情を持つ理由はありませんでした。しかし、今では彼はパウロに好意を抱いています。

困難な中にあって、最後まで絶望せず、分裂しかけた船乗りたちを再び一致させたパウロに何かを感じたのでしょう。もしかすると彼のうちに信じる心が植え付けられたのかもしれません。考えてみますと不思議なことです。パウロがしたことと言えば、皆で一緒にパンを食べた、それだけです。でも、それだけの事が、とても大きな働きをしたのです。苦難の時に、祈りを献げてパンを分かち合う。そのことがとても大きかったのです。

そして、あのような体験をして助かった276人は、自分だけが助かろうとして逃げてしまうということなどするまいと、百人隊長は信じたのでしょう。

パウロは意図していたわけではないのでしょうが、パウロのゆえに全ての囚人が命を救われました。

今日、パウロの乗った船は沈没の危機に晒されていました。しかし、この船はパンを分かち合うことで一致結束して危機を乗り越えました。船が危機にある時こそ一致結束しなければなりません。そして、船に乗っている誰かが危機に陥った時、私たちは結束しなければなりません。一人の危機は全体の危機だからです。一人でも溺れてしまえば、船全体が沈んでしまうのと同じだからです。

パウロが主催した食事は単なる食事を超えた働きをしました。腹を満たすだけではなく、希望を与え、分裂しかけた心を一致させ、276人の魂を生き返らせました。

このような食事を私たちはしたことがあるでしょうか。あります。それは主の食卓での食事です。

昨日、私たちは愛する家族を天の御国へと送り出しました。もちろん私たちは、これが永遠の別れではないと知っていますが、やはり別れは悲しいものです。そんな私たちのために、主は天に帰った友と囲む食卓を用意してくださいました。

聖餐式の冒頭で司式者はいくつかの祈りを捧げます。その中に、「天の全会衆と共にあなたの御名をとこしえにほめたたえます。」という文言があります。また、この食卓で捧げられる祈りは「天と地にあるすべての信仰者との交わりの中で」捧げられるものであるとも明言しています。私たちは信仰により、祈りを通して天に帰った人々とも交流を続けられるのです。「愛と救いの御計画を全ての人の上に成就してください」との願いを、天に帰った人たちとも一緒に捧げるのです。

この祈りは、主の食卓と関係の無い人など居ないという宣言でもあります。神さまはこの祈りを聞き上げてくださいます。パウロを自分とは関係の無い人であると思っていた百人隊長が共に食卓を囲む者となったように、神さまは「私には関係無い」と思っている人をも招き、共に食卓を囲む喜びを分かち合う者としてくださいます。

飢えている時、凍えている時、危機の中に在る時にこそ、私たちは主が用意してくださったパンを食べるために集まり、これを分かち合うのです。このパンを食べる時、私たちは天に帰った人々とも一緒に囲むこの食卓で、温かさを覚えるのです。このパンは食べるのに相応しくない人はいません。誰もが食べるべきパンです。

誰もがこの食卓に招かれています。

イエスさまはこのパンを全ての人に与えようと招いておられます。私たちは何をすべきでしょうか。それは、ただ一つです。この招きに、主の食卓への招きに応じて、みんなで一緒に食卓を囲む、それこそが私たちの願いであり、天に帰った友の願いであり、イエスさまの願いなのです。

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