2024年7月21日
ローマの信徒への手紙 14:10-23
「信じて食べる」
「それなのに」、と今日の日課である御言葉は始まりました。いきなり「それなのに」と始められても「どれなの? 何があったの?」と困惑してしまいます。
ローマの教会では、肉食を避け、定められた日に断食をする厳格な禁欲主義者と、生活の上での自由を主張する人々の関係が上手くいっていませんでした。厳格な生き方をする人たちは自由な生き方をする人たちを「だらしがない」と批判し、自由な生き方をする人たちは厳格な生き方をする人たちを「堅苦しすぎる」と軽蔑していました。
これに類することは私たちの身近なところでも起きることがあります。例えば受難節には断ち物をする人たちが居ると紹介したことがありました。かつては私もこの習慣に従って、自分の口を喜ばせる物を遠ざけていました。好きな物を断つことで、十字架に向かう主の御苦しみの一端でも味わうことが出来れば、それはきっと私の支えとなってくれるだろうと思って間食を避けていました。一方で、そのようなことをする意味が理解できないとでも言うかのように首を振る人が居るのも事実です。
ある教授は、「その類のことは、実際にやってみなければその意味を知ることは出来ない。また、やってみた上でなければ、それを否定することも出来ない」と言いました。その通りだと思います。同時に、このように教授が言ってくれたことをありがたく思いました。なぜならば、これをもし私が言ったとするならば、その時私の心には驕りの心が芽生えて、受難節の禁欲を行わない人のことを批判するような気持ちや、自分は一段上に居ると言うような考えに陥っていたに違いないからです。
それは良くない思いです。その思いを「良くない」と言う理由は簡単です。神さまが愛し、赦されたその人を私が裁いてはならないからです。神さまの御心を、どうして私がひっくり返せるでしょうか。
だから、パウロは「それなのに」と言うのです。「全ての人は等しく神さまに愛されている。それなのに、何故あなたは、その兄弟を裁くのか。罪に定めようとするのか。それは間違っているよね。裁きは神さまのなさることだ。私たちに罪があれば神さまがそれを咎められるだろう。でも神さまはイエスさまの故に私たちを赦してくださるのだから、私たちは自分が赦されたことを感謝して、神さまを賛美しようよ。互いを罪に定め合うのはよそうよ。」そう言うのです。
そして、「人を裁くということは、その人の行く道に石や丸太のような障害物を置くのと同じだ」とパウロは言います。中には多少の妨げなど飛び越えて行ける人も居るでしょう。しかし、そういう人ばかりではありません。小さな段差でも転んでしまいかねない人だって居るのです。そのような人の前に障害物を置いたならば、その人は「ここは通る事の出来ない道だ」と考えてしまうのではないでしょうか。裁く言葉とは、まさにこの石や丸太なのです。
「あなたのしていることは間違っている。」と言われた時に、何の迷いも持たない人、自分を疑わない人と言うのは余程強い人だと思います。自信家であるか、さもなくば頭の固い人でしょう。多くの場合は戸惑います。自信が揺らいでしまいます。自信を失ってしまった人は、傷付いて、それまで歩んできた道を捨ててしまうかもしれません。その人が諦めてしまおうとしている道は神さまへと通じる道であり、その人なりに歩んできた、神さまへと通じる道であったとしたならば、裁く言葉は躓きとなってしまいます。
誰かを裁く言葉は、誰かを神さまへと至る道から遠ざけてしまいかねない、怖い言葉です。しかも、裁く人はそれを正しいことだと思っている。それはもう手が付けられません。だから、そうならないように、裁くことを止めよう。人によって何を大切にするのかは違うのだから、それを押し付け合うのはやめようとパウロは呼び掛けています。
ローマの教会では食べ物を巡って、人々が裁き合っていました。もしも私たちが聖書の食物規定に厳格に従って生きようと思うと、食べられない物がたくさん出てきます。
例えばウナギ。7月24日に土用の丑の日がありますが、今年は土用の丑の日が年に2回ある年なのだそうです。ウナギ、美味しいですよね。関東風のふんわりと焼かれたウナギも好きですが、何と言っても関西風のバリっと焼かれたウナギが私は大好きです。しかし、このウナギは聖書にある食物規定に引っ掛かるのです。
申命記 14章9節から10節には
「9水中の魚類のうち、ひれ、うろこのあるものはすべて食べてよい。10しかしヒレやウロコのないものは、一切食べてはならない。それは汚れたものである。」
とあります。ウナギは鱗が目立たないために、鱗の無い魚として扱われることがほとんどです。水生動物では、マグロ、貝類、エビ、カニ、イカ、タコもダメです。豚も反芻しない動物ですので食べることが禁止されています。
私は、「既に私たちは食べているのだから、問題にしても仕様がないだろう」とか、「美味しいんだから、聖書の規定には目をつぶろうよ」と言っているのではありません。仮にある人が信仰の本質、神さまの道を歩むかどうかというようなことに関わる悩みを持っているのであれば、その時には適切な助言が必要となるでしょう。例えば、人を愛することが出来なくなっていたり、神さまの御姿が見えなくなっていたりしたならば。
しかし、何を食べるかという問題は、どのようにして神さまに至る道を歩むかということであって、そこには試行錯誤があっても良いはずですし、人によって違いがあっても良いはずです。仮にその結果が良くないものであったとしても、裁く必要は無いでしょう。その時には改めて違う道を探して歩めば良いのです。まして、食べ物の問題についてはペトロを通して既に示されているのですから。
使徒言行録10章には、空腹を覚えたペトロの目の前で天が開き、大きな布のようなものに入れられたあらゆる獣、鳥などが入っていて、「これを食べなさい」と天から声がした。とあります。この声に対してペトロは「清くない物、穢れた物を食べた事は無い」と拒否しますが、天の声は「神が清めた物を、清くないと言ってはならない」と答えたとあります。
全ての被造物は神さまが創造された物であって、創造の御業の最後に祝福された物です。全ての物は清いのです。問題は、私たち人間がそれをどのように捉え、用いるかなのです。
私たちがそれらを感謝しつつ頂くならば、また正しく用いるならば、それらは私たちに有益な働きをしてくれます。食べ物以外の物についても、そう言う事が出来ます。例えば鉄です。もしも鉄を用いて土を耕したならば、多くの人を養うことができるでしょう。逆に、鉄によって人を傷付けたとしたならば、それは神さまの御心にはかないません。火も同じです。火は寒さの中で人を暖めることができます。火を用いれば温かなスープを作ることができます。パンを焼くこともできます。しかし火は、家を、そこに住む人びとの生活を、町を焼き払うこともできます。その用い方は神さまの望まれたものではありません。
私たち人間は歴史の中で常に、この選択を突き付けられてきました。例えば飢えた時、その飢えをどのようにして満たすか。例えば貧しくなってしまった時、その貧しさをどのように克服するか。例えば我と彼の利害が一致しない時、それをどのように解決するか。
これらの問題に対して人類はどのように対処してきたでしょうか。様々なやり方がありました。適切に対処できた例も多くありますが、不適切な手段によって解決しようとした例もまた多くあります。悪い方の例の中でも、最悪の手段が戦争です。
戦争は独善と独善の衝突です。当事者たちは誰もが自分にこそ正義があると信じて戦います。独善的な正義が誰かの空腹を満たすでしょうか。独りよがりの主義が、凍える誰かを暖めるでしょうか。利己心が誰かの渇きを癒すでしょうか。エゴとエゴの衝突が誰かの痛みを和らげるでしょうか。私たちに必要なのは裁くことではなく、受け容れ合うことです。
パウロは呼び掛けます。
「だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。」
私たちは神さまから与えられたものを、私たちの理性を、分別を、平和のために、そして互いがより良く生きられるように用いるべきです。
そのためには私たち一人一人が神さまに誠実であることと同時に、姉妹兄弟の誠実さへの信頼が必要です。その兄弟は、その姉妹は、誠実さによって今為すべきことを行っているのだと信じ、一生懸命にしてくれていると信じ、また感謝することが大切なのです。
あなたが何かをしようとしている時に、もしも自信が持てないのであれば、その時には慎重になれば良いのです。肉を食べることに不安があるのであれば肉を食べず、ぶどう酒を飲むことに不安があるのであれば、ぶどう酒を飲まなければ良いのです。それは神さまとあなたとの関係において、疑念や迷いを生じさせてしまうからです。だからと言って、他者にまで食べてはならない、飲んではならないと言う必要はありません。また逆に、他者に食べるべきだ、飲むべきだと強いるのも間違いです。迷いながら食べ、迷いながら飲むのもまた、躓きとなり得るからです。
私たちが求めるのは、裁き合うことではありません。私たちが求めるのは平和です。私たちが求めるのは、神さまの道を歩める喜びです。私たちが求めるのは神さまの正しさです。そして、そこに至るために、互いを信じる心を、自分を信じる心を、何より神さまを信じる心を与えて下さいと祈るのです。
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