聖霊降臨節第11主日礼拝説教

2024年7月28日

コリントの信徒への手紙Ⅰ 11:23-29

「私の身体、契約の血」

コリントの町は交通の要衝であるため、商業的に重要な都市でした。そこには市場があり、劇場や浴場、競技場があり、大いに栄えた町でした。豊かな町に住む人々は全員が豊かだったかと言いますと、決してそうではありません。豊かな人たちは使用人や奴隷を抱えていますので、コリントの町には豊かな人、人を使う人と貧しい人、人に使われる人が混在していました。この町が持つ貧富の構造は教会の中においても存在しており、教会には豊かな人と貧しい人が居ました。

コリントの教会にはいくつかの問題が起きていました。その中の一つに、礼拝の混乱がありました。初代教会の時代、礼拝と主の晩餐はほとんど一致していました。みんなで囲む食事が礼拝そのものだったと考えて良いでしょう。食卓を囲みながら聖書の御言葉の説き明かしを聞き、祈りと賛美を捧げていたのです。ところが礼拝の内、特に主の晩餐、つまり聖餐式の持たれ方について豊かな人たちと貧しい人たちの間で分裂が生じていたのです。生活リズムの違いと、その違いへの無理解・無関心が原因であったと言えるでしょう。

当時、豊かな人たちは朝8時ごろに仕事を始めました。一日の初めは現代の私たちと近いのではないかと思いますが、古代ローマの人々は13時ごろにお昼ご飯を食べるとそこで仕事を終え、後は競技場で剣闘を観戦したり、大浴場で汗を流したりしていたそうです。つまり、一日の労働時間は5時間ほどだったわけです。

当時のローマではまだ曜日が用いられていませんでしたので、日曜日の礼拝は夕方に守られていました。豊かな人たちは、仕事を終え、午後をノンビリと過ごした後で教会に行き、礼拝を守ったわけです。

貧しい人々の生活はどうかと言いますと、豊かな人たちと同じようにというわけにはいきません。豊かな人たちの仕事が見回りとデスクワークを中心としていたのに対して、貧しい人々には身体を使う仕事がたくさんあります。それでも日没までには仕事を終わらせなければなりません。灯りを使うのは贅沢だからです。日の出から夕方まで概ね10時間ほどみっちり働いて、それからやっと教会に駆け付けました。

コリントの教会に集まる豊かな人たちには、想像力が少し欠けていたようです。彼らは教会に早く来られるのを良いことに、自分たちだけで主の晩餐を始めてしまっていました。その結果、遅くまで働かなければならない人たちが教会に着くころには食べ残ししかありませんでした。

これは対等の関係である兄弟に対してなされるべき仕打ちではありません。共に主を信じる兄弟であると口では言いながらも、残り物しか与えられない。奴隷と主人の関係がそのまま教会にも持ち込まれているとしか思えません。豊かな人たちは、この状況がはらむ問題に気付いていませんでした。これは他者の置かれた状況や心の内への無配慮、無感覚そのものであって、これによって教会の交わりは根底から危うくされていました。

豊かな人たちは、その身勝手さによって主の晩餐を有名無実化していただけではなく、教会が神の教会であることを無視し、貧しい人々に恥をかかせていました。パウロはこの問題を明らかにするために、主の晩餐、聖餐を制定するために用いられていた文章を引き合いに出しました。

この制定の言葉は、当時のキリスト者たちの間で受け継がれてきた言葉でした。つまり、聖書からはこれと同じ言葉を見付けられないものの、意味と必要があって受け継がれてきた言葉です。

プロテスタント教会においては、聖書に無い事柄に対する姿勢が大きく二つに分けられます。一つは、聖書に記されていない事柄には価値を見出さないという姿勢。もう一つは聖書に記されていない事柄であっても、それが聖書的であるならば価値を見出すという姿勢。パウロはどちらだったかと言うと、後者であったようです。例えばテサロニケの教会に宛てては「わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。」、あるいは一番弟子であるテモテに対しては「多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。」とあるように、聖書の御言葉とその説き明かしに加えて、パウロが伝えたことを守り、他の人々にも伝えて守るように教える言葉があるあたりからも、それは推測されます。

この、聖書には無いけれども受け継がれてきた教えや言葉を伝承と言います。パウロはコリントの教会へ宛てたこの手紙の中で、自分も教わったという伝承を用いて、イエスさまが十二弟子たちと最後の食事を囲んだ際の光景を思い起こさせようとしています。パウロが受け継ぎ、また今コリントの人々に伝える「聖餐の制定の言葉」は単に、過去の出来事を思い出して懐かしむのではなく、過去の出来事を今ここで再現するために用いられていました。

聖餐式においてはパンが裂かれます。このパン裂きという礼典的な行為において私たちは、イエスさまが全ての人々の罪に赦しを与えるために十字架に登られた事実を繰り返し目の当たりにします。

宗教改革者の一人であるツヴィングリは「聖霊に媒介物は必要ない」と考え、パンとぶどう酒は単なる象徴に過ぎないと考えました。日本のプロテスタント教会の多くは無意識・無自覚の内にツヴィングリの影響を受けていますが、他の宗教改革者たちはどうであったかと言いますと、ルターにせよカルヴァンにせよ、若干の違いはあれど、どちらも何等かの形でパンとぶどう酒にキリストが伴うという点において一致しており、ツヴィングリの教説とは対照的であると言えます。私たちはパンが裂かれる様子を見、またそのパンの味を通して神の子キリストが全き犠牲となり、私たちのために命を捨ててくださったことを思い起こします。これが、「主の死を記念する」という言葉の意味であり、これを行うようイエスさまが命じておられたと伝承は教えているのです。

この時に頂くパンとぶどう酒は、世々のキリスト者が自分たちの信仰の源がどこにあるのかを確かめるための大切な食事です。それなのに、コリントの教会において生じていた混乱と分裂は、イエスさまを思い起こし、その食卓を囲む人々と共にイエスさまと交わるという、この食事の持つ意味を台無しにしていました。主の食卓の乱れ、聖礼典の混乱は、教会の一致を妨げ、分裂の切っ掛けとなってしまうのです。

教会は何によって一致を担保できるのでしょうか。私は信仰告白と聖礼典による一致であると考えています。信仰告白による一致については余り説明する必要は無いと思います。信仰告白とは「この神さまを信じる。このように信じる。」という、信仰の定義だからです。では聖礼典による一致はどのようにして図られ、どのようにして確かめられるでしょうか。先ほど私は、「パウロは伝承を引用した」と申し上げました。パウロは伝承に意義を認め、コリントの人々にこれを守るように教えました。同じように今に至るまで伝わっている伝承の一つに、「十二使徒の教訓」という文書があります。

この中に「主のみ名において洗礼を受けた者のほかは、なにびとにもなんじらの聖餐を食べさせても、飲ましてもならない。なぜなら、これについて主は御自ら「なんじら、聖なる物を犬に与うべからず」(マタイ7:6)と仰せられたからである。」という記述があります。この文書が成立したのは1世紀後半から2世紀ごろと考えられていますので、まさにパウロの時代です。イエスさまを見た人々がまだ生きている時代に、初代教会は既に未受洗者への配餐を禁止するという点で一致していたと推測できます。それを全教会的な議論もせずに変更しようとすれば、それは教会の一致を妨げ、混乱させ、分裂する切っ掛けとならないわけがありません。

一致のために囲む食卓を混乱と分裂の原因としてはならないはずです。もちろん教会は、これまでは手の届かなかった人々とも一致できるように挑戦を続けますが、その足場は信仰の基礎から外れてはいけません。どこまでならば手を伸ばせるのか、どのようにすれば足場から離れずに手を伸ばせるのか。その試みは、はたから見るとイライラするほどにユックリとしか進まないかもしれません。しかし私はユックリで良いと考えます。絡み合った糸を無理に引っ張ると切れてしまうからです。糸がどのように絡み合っているのかを良く見極めた上でなければ解決できない問題が多いのです。私たちはキリストの身体である教会を破壊するわけにはいかないのです。

これからも教会は様々な問題と直面し、これに取り組むでしょう。私たち一人ひとりも同様です。多くの課題が待ち受けているでしょう。そんな時、私たちは動揺するかもしれません。その課題が大切であればこそ、私たちは性急に事柄を進めるのではなく、落ち着きをもって、みんなが依って立つ足場を確認しながら問題と向き合うのです。ユックリとではあっても着実に、理解を深めつつ、その時の課題に取り組みましょう。

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