聖霊降臨節第8主日礼拝説教

2024年7月7日

使徒言行録 24:10-21

「復活への希望」

預言者ミカはヨタムやアハズ、ヒゼキヤらがユダの王であった時代に預言をしました。これら三人の王たちのうち、アハズはアッシリアに近付くためにアッシリアの神々を刻んだ偶像を崇拝した王、悪い王として知られています。

アハズ以前にもユダの民は偶像を崇拝し始めていましたが、王がこれを容認したために、当然のことながら国を挙げて神さまの御心に背くようになってしまいました。そこでミカは指導者たちの腐敗を告発する預言を始めました。

アハズが退位すると、ヒゼキヤが即位しますが、彼は神さまの御言葉に従順で、御目に適う王でした。アッシリアはユダに攻め込み、エルサレムは窮地に追い込まれますが、神さまがアッシリア軍を打たれたために18万5千人の兵士が一晩のうちに死んでしまい、アッシリア軍は撤退します。

ユダの民は罪に堕ちてしまいましたが、罪を悔い改め、赦し願う時、神さまはユダを憐れみ、救われました。ミカは預言の最後に罪の赦しと慈しみを願って祈ります。それが18節以降の御言葉です。ミカは神さまの赦しの向こうに民の再生、立ち返りを望み見ています。

罪びとの赦しについて、イエスさまはどのように教えられたでしょうか。イエスさまは罪びとであるからこそ赦されると教えられました。どれほど世が罪の暗さで満たされたとしても、神さまは私たちを愛し、豊かに命を与えようと願い、独り子イエスを救い主として遣わされました。暗さの中に光を灯す。罪の赦しを通して人々に希望を与える。これこそヨハネ福音書を貫く福音でしょう。

罪びとにこそ赦しが与えられる。それはパウロが命を懸けて伝えようとした良い知らせでもありました。パウロは異邦人にも積極的に福音を告げ知らせていました。ユダヤ人以外には乗り越えがたいハードルとして聳えていた割礼を、異邦人キリスト者には不要であると説き、多くの人々を救いに導きましたが、そのためにユダヤ人たちからの反感を買ってしまいました。

三回目の宣教旅行を終えたパウロはエルサレムを訪れました。この時、パウロはヤコブと面会をしました。パウロが律法を尊ぶ姿勢を前面に押し出せば、パウロに対する誤解が解けると考えたヤコブの勧めに従って、パウロはナジル人の誓願を立てようとする人々を補助しようとします。それに先立って、パウロは身を清めます。外国からの帰国者は穢れていると考えられていたので、身を清めなくてはならなかったのです。

いよいよ清めの期間が終わろうという時に、パウロを神殿で見掛けたユダヤ人たちはパウロが神殿に異邦人を連れ込んで穢したと誤解し、パウロを捕らえてリンチに掛けようとします。

エルサレムの都全体が大騒ぎになったため、ローマの守備隊が駆け付けて騒動の中心に居るパウロを逮捕します。ローマ軍の兵営に護送されるにあたってパウロは人々に証しをしました。熱心なユダヤ教徒であった過去と、回心に至った経緯、異邦人のために教えを説く理由を述べますが、興奮した群衆はパウロを殺せとシュプレヒコールを挙げるばかりでパウロの話を理解しようとはしません。

ローマ軍の指揮官はパウロを兵舎に留置し、鞭で打った上で取り調べをしようとしますが、パウロはローマ市民権を持つ者であると述べ、この逮捕が不当であると訴えます。私は、パウロが全てを計算した上で逮捕されたのではないかと考えています。この逮捕が切っ掛けとなって、パウロは自分の信仰を公の場で告白する機会を得たからです。

翌日、パウロは最高法院で信仰を告白しました。パウロが復活信仰に関して述べたために、復活の有無で意見を異にしているファリサイ派とサドカイ派が衝突し、最高法院は混乱しました。さらに次の日になると、ユダヤ人の過激派はパウロの暗殺を企てます。しかし、これは内通者によって通報され、パウロはカイサリアに居る総督フェリクスの元に護送されます。

この五日後、エルサレムから大祭司アナニアがカイサリアに来て、フェリクスに訴えます。アナニアはまずフェリクスの統治について誉め言葉を述べますが、これは有り体に言えば追従、ゴマすりです。「閣下のおかげで平和を」だの、「いろいろな改革が」などと述べていますが、事実は全く違います。

フェリクスが着任してからのユダヤは熱心党やシカリ派というテロリスト集団が暗躍し、紀元56年には大祭司ヨナタンが暗殺されるなど、治安はお世辞にも良いとは言えません。さらにパウロを「疫病のような人間」「世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こす者」「異端者」と述べ、神殿を汚そうとしたので逮捕したと訴えます。

フェリクスはパウロに発言を促したので、パウロはローマの法的慣習に従って弁論を始めます。パウロはアナニアの訴えが的外れであると立証していきます。

アナニアはエルサレムで起きた騒動の原因をパウロに求めますが、パウロはエルサレムには12日しか滞在していません。都中が大騒ぎになるほどの人々を12日の間に動員できるかと言うと、ちょっと難しいように思います。昨日、私は教区教育委員会主催の「なつのれいはい」に出席しましたが、この礼拝には企画から3か月以上を費やしています。教区内の各教会、百以上の教会に漏れなく告知して集まったのは、やっと20人程度です。6倍以上の時間を掛けて、シンパシーを感じている人たちに広く伝えて、やっと20人です。たった12日で都を大混乱に陥れられるものでしょうか。

清めの儀式を受けている間、パウロはその姿を人々に見られていますが、その時神殿の中は平静であり、何の騒ぎも起きていませんでした。パウロは誰とも揉め事を起こしていませんし、扇動もしていません。もし神殿での振舞に問題があれば、それを見た人が訴えを起こすべきでしたが、そのような訴えを起こした人は居ません。今カイサリアに来ている告発者たちは何も見ていないので、何の証拠も示せません。

また、告発者たちはパウロを異端であると述べていますが、パウロは律法と預言者を尊び、その教えに背いたりしていません。それは清めの期間を規定通りに過ごしている点からも明らかです。

復活信仰についてもパウロが訴えられるべき理由とはなりません。ユダヤ教徒の中には復活を信じる人々も居て、彼らは異端扱いをされていません。大祭司アナニアは何人かの長老と一緒にカイサリアに来ていますが、それらの人々の中にも復活を信じている人が居るとパウロは指摘します。復活信仰が罪なのであれば、今ここに来ている人の中にも訴えられるべき人が居るのに、その人たち自身がパウロを訴えているのですから、矛盾も良いところです。

騒動の原因は全て、アジア州から来た数人のユダヤ人による誤解と曲解です。彼らは最初からパウロを悪意で見ていました。パウロが何をし、何を言ったとしても悪く理解しようとしかしないのです。パウロを訴えている人々は、訴えの内容も、訴える方法も間違っているのです。純粋に信仰的な問題として取り扱うべきところを法的・政治的問題として扱うようにフェリクスに訴える。フェリクスの歓心を買おうとお世辞を言ってから主張する。主張の内容はデタラメばかり。一方のパウロは、法廷の役割は問題を法に基づいて扱うことにあると述べた上で理路整然と議論を展開し、大祭司アナニアが訴えの理由として述べている事柄が事実と異なる、間違いばかりであると立証しています。お手本のような弁論です。

事実誤認に基いた訴えの愚かさと、正しい主張が対比されていますが、私は事実誤認をしてはならないとまでは考えていません。誤った主張をしてはならないとも考えていません。むしろ逆で、人間は事実を正しく認識できない、できるわけがないと考えています。人間には物事を全ての角度から観察し、理解する能力などありません。この中で月の裏側を見た人は居るでしょうか。月は私たちに同じ面しか見せてくれません。裏側はいつも陰になっていて見えないのです。でも確かに裏側は存在していて、裏も表もあって初めて月なのです。見えない面を私たちは無意識のうちに想像で埋めようとします。この時に愛を忘れてしまうと、私たちはキリスト者としての命を失ってしまいます。世に向かって何を訴えるべきなのかを見失ってしまいます。

神さまは御自身に背く民の何を御覧になったでしょうか。罪に気付き、悔い改める姿、これからは正しく生きたいと願う姿に目を向け、赦されました。ここに愛があります。イエスさまは姦淫の罪を犯した女の悲しみを御覧になりました。正しく生きたくても、それができない苦しみを御覧になり、赦しと励ましを与えられました。ここに愛があります。

今までがダメだったから、これからもダメだなどとは考えず、これからに希望を与えられるのです。粘り強く命を与えようとなさるのです。私たちも主の御姿に倣います。世に満ちる思いを「悪い」という前提で見るのはやめましょう。先ほど、月の話をしました。光があって陰があるから、わたしたちは月の表面にはデコボコがあると認識できます。光と陰の両方がその人を形作っているのですから、その人の陰も大切にしましょう。陰をこそ愛で理解しようと努めましょう。

神さまは私たちの陰をも愛してくださいます。私たちが絶望したくなるような陰を愛してくださいます。私たちが「ここには命がない」と思えるようなところにさえ命の息を吹き込んでくださいます。

私たちは粘り強く、愛をもって世と関り、世に語り掛け、御救いを証しするのです。

説教目次へ