聖霊降臨節第13主日礼拝説教

2024年8月11日

コリントの信徒への手紙Ⅰ 2:11-3:9

「共に働く」

聖餐式において、私たちの捧げる祈りに応えて神さまは私たちに主イエスの御受難を目の前に再現してくださいます。裂かれたパンを頂き、注がれたぶどう酒を飲む度に私たちはイエスさまが私たちのために示してくださった最大の愛を仰ぎ見、神さまの願いを知ります。神さまは私たち全てが赦され、互いを赦し合い、愛し合う一つの群れとなり、平和の内に生きるよう願っておられます。イエスさまは既に天に昇られましたが、世々のキリスト者たちは聖餐を通して、十字架の出来事を繰り返し体験し、想いを新たにしています。

十字架に登られたイエスさまの御姿は、見る者全てに美しさや偉大さを感じさせるとは言えなかったでしょう。ゴルゴタの丘に集まったほとんどの人にとっては惨めな様子でしかなかったはずですが、イエスさまを愛する者、イエスさまが十字架の上で何をしてくださったのかを理解できる者にとっては、それ以上に美しく、それ以上に偉大な光景はありませんでした。イエスさまが十字架の上で息を引き取られる様子を見て初めて、イエスさまの御心に気付いた者も居ました。

本当は誰にも理解できたはずでした。神さまは全ての人にご自身の霊を注がれたのですから、その霊が語り掛ける言葉に気付きさえすれば、誰だって神さまの願いに気付けるはずでした。そして、神さまの願いが実は自分自身の願いでもあると気付けるはずでした。

聖書が「霊」という言葉を用いる時、二通りの用いられ方があります。一つ目は、神さまの霊、つまり聖霊を指す用いられ方で、二つ目は人の精神活動の座を意味する用いられ方です。神さまは創造の時、土を捏ねて作った人の身体にご自身の霊を注がれました。この霊、聖霊は私たちに導きを与えます。

二つの何かを並べて論じる時、なんとなくそれらを対極に置いてしまいたくなりますが、私は二つの霊は必ずしも対立関係には無いのではないかと思います。神の霊は人を正しさに導こうとしているのに、人の内にある思いはそれに反して欲望を追求させようとするという、完全な対立関係にあるとまでは思えないのです。

人は本来、神さまの正しさを生まれながらに求めているのではないでしょうか。この正しさを求める心こそ、神さまから与えられた恵みであると思います。しかし、正しい道を歩みたいと願ってはいても、例えば利害や好み、その時の状況などが私たちを真っ直ぐには歩かせてくれないのです。歩みたいと願っている道を反れてしまうのです。そして、今自分が置かれている場所から離れた所にある「理想の自分の姿」を見ては「こうじゃなかったのに…」と残念に思うのです。

神さまの霊が語り掛ける言葉が聞こえず、聞こえても耳を傾けようとしない、理解しようとせず自分の欲望や好みを第一に考える人。パウロはこれを自然の人、あるいは肉の人と呼んでいます。この人はなぜ自分が満たされないでいるのか、なぜ残念に思っているのか、その理由に気付けません。

15節には霊の人という言葉があります。霊の人も人である点では肉の人と同じですが、その違いは霊の声に耳を傾けられるという点、霊の声が聞こえるという点にあります。

霊の声が聞こえるとは、どのような状態でしょうか。3章の冒頭でパウロは、「あなた方には肉の人、つまりキリストにある幼子に対するように語りました」とあります。つまり、パウロは分かりやすいように言葉や論理を聴き手に合わせて使い分けていました。これに倣って「霊の声が聞こえる」という状態を説明するならば、「客観視できる」という表現が近いのではないかと思います。自分の願いや好みと神さまの御心を分けて考えられる。客観的に状況を、また自分自身の内面をも含めて把握し、その時、一番大切にすべきものは何なのか、どのような手段や言葉が最も良いのかを良心に基いて判断できるような状態、神さまの御前に恥じる必要のない選択をできる状態。「霊の声が聞こえる」とは、これに近いのではないかと思います。

その場その場で神さまの御心を人は知り得るのでしょうか。その時に応じた答えを即座に見出せるでしょうか。神さまの御心には揺るがぬ一貫性があると私は感じています。神さまの願いとは、赦しであり一致です。誰にとっても、在りのままの自分でそこに居られる、それが赦しです。一致はそこにこそあると考えます。それぞれに違いはあるけれども、在りのままのその人が愛され、尊重される、それが一致であると考えます。

これは理想です。キリスト者であればこそ、毎日の生活の中で常にこの理想を実現できるとは言えない現実を知っています。でも、だから私たちは常に平和を求めて祈ります。せめて平和を願う祈りの場には、あらゆる立場を超えて、あらゆる利害を超えて全ての人を招き、全ての人と共に祈りを捧げたいと願います。

祈りを通して、互いの大切さに改めて気付き、大切にしあいたいと願い、その願いで一致する。一致できるようになる。それが霊的な成長であり、その祈りに基いて、それぞれの立場にあって平和のために働く、それぞれの場にあって神さまの御心のために働く、それが「共に働く」ということなのだと私は信じています。

祈りの場に肉の思いが持ち込まれ、肉の思いによって誰かを排除し、肉の思いによって反発し、肉の思いによって一致できなくなってしまった。そんなのはナンセンスを通り越して愚かです。私たちには自然の人、肉の人から霊の人への成長が求められています。誰とも心を合わせて神さまの御心のために働き、神さまの御力によって実を付け、満たされずに居る人に分け与える、霊の人への成長が求められています。

私たちキリスト者は祈る者です。共に祈る者です。共に御心のために働く者です。残念な思いをする時もありますが、諦めずに、共に祈りつつ、共に働きましょう。

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