聖霊降臨節第14主日礼拝説教

2024年8月18日

ローマの信徒への手紙 7:1-6

「束縛からの解放」

エジプト軍の手から逃れたイスラエルの民は、シナイ山のふもとにたどり着きました。モーセはシナイ山に登り、神さまから十戒を授けられました。一方、モーセが山からなかなか降りてこないため、イスラエルの人々は不安に襲われていました。耐えきれなくなった人々は金でできたアクセサリーを集めてこれを熔かし、子牛の像を作ってこれを神として崇め、乱痴気騒ぎを始めました。

これは十戒の最初に定められている戒めの二つに背く行いでした。神の民は、戒めを与えられた途端に、極めて重大な違反を犯してしまいました。イスラエルの人々は神さま以外のものを神として崇め、偶像を造り、人と人との関係における秩序を乱し、神さまの御心を踏みにじってしまいました。神さまは激しく怒られました。モーセは何とか神さまの怒りを宥め、山を降りますが、そこで繰り広げられている光景を見ると神さま以上に怒り、神さまから授かった石板を叩き割ります。あたかも、この民に神さまの愛は相応しくないと言わんばかりでした。

民の内のある者たちは自らの責任を回避しようとしましたが、別の者たちは神さまに従順であろうと望み、悔い改める姿勢を示します。そこでモーセは神さまに赦しを請い、神さまはそれを受け容れて、十戒を改めて与えられました。神さまは御自身が何ものであるかを宣言なさいます。

「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。」

神さまは重大な背きに対しても、悔い改める者を赦そうという意志を示してくださいました。この時、神さまは続けて「しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」と、怒りについても言及しておられます。一見すると罪の責任をその人だけではなく、その人の子や孫にまで追求するという厳しい姿勢であるかのようにも見えますが、赦しが幾千代にも渡って与えられるのに対し、三代、四代までしか問わないという違いを見ますと、ここでは神さまの寛容さを読み取れます。何よりも、罪を悔い、改めて神さまに従順でありたいと願う者に対しては限りなく寛大な姿勢を示しておられます。

律法は本来、人を罰するためにではなく、悔い改めに導くために与えられたのです。ところが、時代が下ると人々は律法の本来の目的を見失ってしまいました。イエスさまは、人々の心の動きを見抜き、指摘なさいます。ルカによる福音書には、ファリサイ派の人が捧げた祈りの例えが記されています。

「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。』」

人間の心とは奇妙なもので、不安からは中々自由になれません。自分は正しく生きていられているだろうか。自分は神さまの御目に適う者だろうかという不安が常に付きまといます。このような時、ある人は自分に対して必要以上に厳しくなります。そのような人は、他者に対しても必要以上に厳しくなります。強迫観念がそうさせてしまうのです。自分にも、自分以外の誰かに対しても厳しく臨み、その厳しさを貫徹出来た時にわずかな安心感を得るわけです。自らの清潔を、厳しさによって証明しているわけですが、それは健康な方法だとは思えません。

ヨハネによる福音書には、他者への厳しさが極まった人々の様子が描かれています。姦通の現場を捕らえられた女性をイエスさまの御前に引き出した人々は、石打の刑の是非をイエスさまに問いました。この問いに対してイエスさまは答えられました。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

これを聞いた人々は誰も彼女に石を投げられず、残らず立ち去ってしまいました。残された女性には「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と赦しを宣言し、導きを与えられました。イエスさまは短い言葉を通して神さまの愛の深さと広さを教えてくださいました。

パウロは、結婚した女性であっても夫の死後は亡き夫との婚姻関係は終了し、他の男性との結婚が可能となるという、律法の定めを用いて律法と私たちの関係、福音と私たちの関係を説明しています。福音を受け容れた者は洗礼を受けます。洗礼は罪の中にあった自分が水の中で死に、引き上げられて新たな命を受けて生きるという体験です。私たちに罪を示し、私たちを追求する律法との間に結ばれていた婚姻関係は、洗礼によって終了し、新しく赦しを告げる福音との婚姻が始まったのです。律法に対しては死んだ者となり、律法から解放された私たちは、福音によって注がれる新しい霊、聖霊に従う新しい生き方をするのです。

もちろん、律法が間違っていたわけではありません。律法は正しく、善いものであるとはパウロもイエスさまも認めていますが、律法は人間の罪深い実態を容赦なく露わにし、しかも暴露された罪に対する決定的な手当に欠けているために、律法に従う生き方には救いがありません。「文字は殺し、霊は生かす」と語られるように、律法によって明らかにされた罪深い現実から救われるためには、キリストの十字架を通して、古い自分に死んで神さまとの新しい関りの内に生かされ、聖霊を通して日々新たな命を注がれ、内側から造り変えられる必要があるのです。

プロテスタント教会ではあまり聖霊について語られる機会が無いという指摘をされることがあります。これは半分当たりで半分は外れています。

プロテスタント教会には、例えば福音派やペンテコステ教会などのように聖霊を前面に押し出す教会もある一方で、保守的な教会ではあまり聖霊については説教で取り上げられてきませんでした。では、保守的な教会は聖霊の働きを無視していたのかと言いますと、決してそういうわけではありません。世界的に礼拝刷新の試みが静かに動いています。秦野教会も、その動きの中にあり、しかもかなり早い段階で独自に礼拝の刷新を試みていたと言えます。

秦野教会の礼拝では冒頭に罪の告白があり、次いで赦しの宣言がなされます。そして聖書の御言葉が読まれてそれが説き明かされ、感謝が捧げられます。これは秦野教会の独自の試みです。夕拝においては教団が示した試みの実践がなされています。悔い改めの後に神の栄光が賛美され、ハレルヤが歌われた後に福音書が読まれます。これは日本基督教団が2006年に提示した式文に基いた礼拝順序ですが、これを導入している教会は日本基督教団に属する教会の中でも珍しいと言えます。秦野教会は朝の礼拝と夕べの礼拝、二つの礼拝において先端を歩いているのです。

私たちは礼拝の中で自らの罪深さを認めて告白し、赦しを請います。罪の告白を通して一週間の歩みを振り返ります。自らの至らなさと愛の少なさに気付かされ、身のすくむような思いに苛まれる時、赦しの言葉が響きます。そして、神さまの慈しみと赦しの愛に包まれる喜びを、私たちは「ハレルヤ」と賛美します。

赦しと救い無しに福音のメッセージは届きません。だから私たちは、赦す教会を目指します。だから私たちは赦す者であろうと努めます。

どうしても赦せない相手が居るかもしれません。そんな時は、まず私たちが赦しを願って祈るのです。「赦せない私を赦してください」と祈るうちに、神さまは私たちの内なる霊を造り変えてくださいます。いつしか祈りが変わります。「赦せないでいます。いつか赦させてください」と。その祈りに応えて神さまは私たちに赦せる心を与えてくださいます。必ず与えてくださいます。

御子の血によって赦された者として、赦された喜びを分かち合うために、私たちも赦しましょう。赦したいと願って祈りましょう。

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