2024年8月25日
エフェソの信徒への手紙 13:17-22
「起きよと呼ぶ声」
今朝も私たちは朝の光の中で目覚めを与えられました。光にも様々なイメージがあります。真夏や残暑の厳しい今のような季節にあっては、光の中の歩みは苦しみを伴います。一方で、春の日差しや冬の日の陽だまりのような光もあります。パウロの語る光には、どちらの要素も含まれているように思えますが、私たちの歩みの行きつく先には柔らかく優しく私たちを包んでくれる光が待っていることを予感させます。
このエフェソの信徒への手紙は、いわゆる獄中書簡、パウロが牢に繋がれている時に書かれた書物として知られています。この時パウロが捕えられていたのがどこであったのかは明らかではありませんし、それがどのような牢であったのかも分かりません。何となく「牢獄」と聞いて想像するのは、受刑者の逃亡を防ぐために窓を極端に小さく作った建物のイメージです。もしかするとパウロは、小さな窓から差し込む光から、今日の御言葉のインスピレーションを与えられたのかもしれません。
この手紙の中でパウロは、私たちに与えられた救いと、それがどのように私たちを変えるかということ、そしてその救いのために教会がどのような役割を果たしているのかを述べています。
教会はイエスさまを信じる人の集まりであり、神さまを信じる信仰とは何かを問う人の集まりです。つまり人の集まりですが、それ以上にキリストの体です。救い主の御心、キリストの業をこの地上において行うのが教会です。その業は教会に集う私たち一人ひとりに働きかける聖霊を通して実現されます。教会を働かせる力は人間に由来するのではなく、神さまの御力です。だから、教会は人間の限界を超えて全ての人を招き、受け容れられるのです。
この働きを十全に活かすために、また私たちが主の御業を妨げないように、私たちは常に祈ります。それはパウロが3章の末尾で祈っているように、神さまが私たちを強めてくださるように、私たちの内にキリストが住んでくださいますように、私たち自身が愛に根差して生き、キリストの愛を知り、満たされるようにと求める祈りです。これは私たちの利益を求めるための祈りではありません。私たちが神さまの御栄光をこの地上で表せるように、神さまのために生きられるようにと求める祈りです。これは自分の人生を捨てるという意味ではありません。神さまのために生きる時、私たち自身にも喜びが豊かに与えられるのです。
パウロは「闇の業に加わるな」と私たちを戒めています。闇の業とは何でしょうか。ここで言う闇の業とは、自らの欲求や利益、欲望、要求を満足させるためだけの行いであって、他者に思いを致すことの無い行いです。それは「愛の無い行い」です。パウロはそのような行いに加わってはならないと私たちを止めるのです。
そして「むしろ、それを明るみに出しなさい」と言います。それを「告発せよ」という意味に取りますと、それはこの御言葉の意味を狭くしてしまいます。「明るみに出す」という言葉の向こうには、救い主の招きがあるのです。
私たちには一人ひとりに違う思いや願いがありますが、それを愛を持って実現しなさいとの勧めているのです。
キリストととの歩み、これは私たちの望みでもありますし、また私たちに勧められている生き方でもあります。私たちは自分を顧みる時、イエスさまがどのようなお方だったのかを思い起こし、自分と主の御姿とを比較します。ほとんどの場合、イエスさまの御姿を通して自分自身の小ささや弱さ、罪深さを見出して私たちは凹むわけですが、それでもそんな私たちを愛して下さっているということに励まされて、改めて新しい歩みを始めます。
これと同じように、私たちが何かに疑問を持つ時、例えば自分がしようとしていることや誰かがしようとしていることについて「これはどうなんだろう」と考える時、イエスさまの御心、御業と比較すれば、そこに愛があるのかを判断できるでしょう。
もしもこの時、単に比較するだけで終わらせてしまったり、「それは間違いだ」と非難したりするだけで終わらせてしまったとしたならば、その闇は払われること無く残ってしまいます。わだかまりが残るからです。私たちに望まれているのは、イエスさまがその闇を御光によって照らされる、その手伝いをすることです。
イエスさまの望みは、私たちが闇を歩まないというだけではなく、今もし誰かが闇の中に居るのであれば、愛に気付けずに生きているのであれば、その人を光へと導き、愛の中に生かすことです。14節に記されている詩、「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」という詩は、それを言っているのです。
この詩の出所は明らかではありません。聖書の中からは、これと同じ文章を見付け出せません。もしかするとこれは礼拝の中で歌われた賛美歌なのかもしれません。闇の中に居る者は眠っているのです。自らの生を、神さまから祝福されているはずの生を生きていないのです。だから、「起き上がりなさい、そうすればキリストの光の中を、愛を受けて、愛を行って生きることができるのだ」と呼び掛けているのです。
愛の中に生きることが出来ないでいる人、愛を行えずにいる人を愛の中に招き入れるための働きが私たちに求められています。そして、その人を光の中に招き入れるために私たちは、闇が闇でしかないことを証明するのです。私たちは、私たちが自分の生き方を吟味する時と同じように、闇の業、闇の道がどのようなものであるのかを、主イエスの生き方を通して明らかにします。それは決して責めるように、攻撃的に行うべきではありません。それでは愛の業ではなくなってしまうからです。あなたも、あなたの周りに居る人もみんなが幸せになれる、より良い道があると勧めるのです。その人が受け容れやすいように勧めるのです。
これは容易な道では無いと思います。とても時間と手間のかかるやり方だと思います。根気のいるやり方です。しかし、闇が強い時ほど、このようなやり方が求められているのではないでしょうか。衝突は新たな衝突を生むからです。じれったいかもしれませんが、凍った地面を春の日差しが暖めて溶かすように、時間を掛けて行わなければならないのです。
これほどの大きな働きを求められて、途方にくれそうになるかもしれません。しかし、私たちは逃避すべきではありません。逃避の手段として、ここでは酒が例として挙げられています。この箇所は禁酒を勧めているわけではありません。すがるべき相手を間違えてはならないと言っているのです。現実から、自分の為すべきことから目を背けて酒に溺れたところで何を生み出すことができるでしょうか。何も生み出さないではありませんか。酒以外のものでも同じです。目の前に為すべきことが提示されているのに、それから目を背けても何も変わりません。
私たちがすがるべきものは何か、求められている働きに対する自分の無力さ小ささに不安になった時、私たちがすがるべきものは何でしょうか。私たちを助けて下さるのはどなたでしょうか。それこそ、神さまであり、イエスさまであり、聖霊です。教会はイエスさまの体として神さまによって建てられました。そしてそこには聖霊が満たされ働かれます。この教会こそ、そして教会に集まる姉妹、兄弟こそ、互いに祈り合い、助け合う家族です。
私たちはこの教会で、聖霊の働くこの場で共に御言葉を味わい、神さまの愛に、イエスさまの愛に、聖霊の働きに何度も何度も繰り返し触れて、主を褒め称え、主に感謝するのです。そうやって私たちは神さまからの召し出しにお答えするのです。今や「教会」という言葉の持つ意味は拡大されました。いえ、元に戻ったと言った方が良いのかもしれません。語られる御言葉によって結び合わされたこの家族は、それぞれの場においてキリストの身体を形作ります。
私たちもかつては闇の中を歩んでいました。今でも、ともすると闇の中に迷い込むことがあります。しかし、その都度主は私たちを光の中に招き、引き戻してくださいます。主は私たちを照らしてくださるのです。だから私たちも、誰かが闇の中に居るのに気付いたら、「あそこには暖かな光、優しい光があるよ」と、その人を誘うのです。柔らかな光の中での心地よい目覚めを勧めるのです。
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