2024年8月4日
ヨハネの手紙Ⅰ 5:1-5
「世に勝つ信仰」
ヨハネが書き記した書物の数はパウロと比べるとずっと少なく、またそれぞれの書物の規模も、とても小さなものです。そしてパウロのように信仰に関する事柄の隅から隅までを論じているというわけでもありません。しかし、それでも神さまは私たちに何を望んでおられるのだろうという事について知りたいと願った時に、道標となる大切な事柄を書き記してくれました。
今日読まれましたヨハネの手紙Ⅰの全体を眺めてみますと、この手紙が書かれた目的は、これを読む人の信仰を強め、また神さまを信じる者としての姉妹兄弟同士の愛を強め、互い絆を神さまとの交わりの中で固くすることにあると言えます。信徒同士の絆を強調する必要があった理由は、初代教会が直面した異端の脅威から教会と、そこに集まる人々を守らなければならなかったからです。
この異端について、ヨハネは「偽りを述べる者、偽り者」と表現していますが、具体的に申しますとグノーシス主義者のことです。
グノーシス主義とは、当時の地中海沿岸地域に広く知られていた、一種の思想運動のことです。彼らは物質的な物を悪と捉え、真実な物、良い物はこの世界の外にあると考えていました。そして、この世界には真理に至る知識が隠されていて、それを集めることで人間は救いに至る事が出来ると考えていました。
このグノーシス主義は、先ほども申しました通り、地中海沿岸地方に広まっていて、当時としては進歩的な世界観であるとして、キリスト教にも大きな影響を与えていました。しかし、一方で彼らは伝承に基づいた古い信仰に従っているキリスト者を軽蔑しておりました。
元々は彼らもキリストを信じる者として教会に居た人々だったのですが、信仰の核になるいくつかの点で一致出来ず、袂を分かちました。そのポイントは、キリストの受肉でした。
彼らにとって、物質的な物は悪でした。従って、神の子が肉の体を持ったという受肉の教義は受け入れられませんでした。では、この地上を旅されたイエスさまは、弟子たちが見たイエスさまは一体何だったと言うのでしょうか。彼らのうちのある者は「イエスの誕生や行い、そして死はすべて人間の目にそのように見えただけだった」と理解し、説明しました。また別のある者は「キリストは、地上に生きたイエスの中に一時的に宿ったに過ぎない。受洗によって宿ったが、受難に先立ってイエスから離れて神のもとに帰った。」と説きました。
この考え方に立つと、私たちの信仰が成り立たなくなるということはすぐに理解していただけると思います。「そのように見えただけ」と言うのであれば、イエスさまの十字架の上での死も、それに先立つイエスさまの祈りも、全てが空しくなってしまいます。
当然の如く、彼らは教会を離れて行きました。その上で彼らは言います。「私たちは最早罪には誘われない。だからいかなる清めも、罪の赦しも必要ではない。」
もしも本当に罪から無縁でいられるのであればそうなのかもしれませんが、そのような人間があり得るでしょうか。彼らは悩まないのでしょうか。苦しまないのでしょうか。
さらに彼らは信仰の兄弟姉妹に対する愛の必要性を無視していました。
時々、こういうことを言う方がおいでです。
「教会に行かなくても聖書を読んでいれば信仰は保てる。」
本当にそうでしょうか。私たちは交わりの中で育てられるはずです。様々なことに気付き、また教えられて、支え合って信仰者として育つはずです。人間同士の付き合いで苦しむこともあるかもしれません。衝突することもあるかもしれません。その煩わしさに悩む時などは、いっそ関係を絶ち、一人で静かに聖書を読み、祈っている方がマシであるかのようにも思えますが、それでは神さまの求めに応えられなくなってしまいます。
ヨハネは言います。「戒めを守る事を通して、私たちが互いに愛し合っているということが分かる。そして、戒めを守ることが神を愛することだ。」と。この神さまの戒めが神さまの求めであり、その本質は神さまへの愛と、神さまによって造られた者同士が互いに向ける愛であるという事については、私たちは既に深く理解しています。そして、ヨハネは「その戒めは難しいものではない」とも言います。
これは決して、「いつでも簡単にできる」と言っているわけではありません。実際、私たちが目にする世界には憎しみが存在し、傷付け合う人々が居ます。しかし、私たちは祈ります。全ての人が満たされて、赦し合えるように、愛し合えるようにと祈ります。その祈りは聞かれます。必ずいつかその祈りによって分かり合える時が与えられます。祈りは空しい行いではありません。祈りに基づく働きは空しい努力ではありません。
私の好きな歌に、「ヨイトマケの唄」というのがあります。工事現場で働く母親を、子どもの目線から描き出した歌です。とても泥臭い歌ですが、心を震わせます。
皆さんは土方仕事をしたことがありますか。私は高校時代、現場仕事をして学費を稼いでいました。ある時はタイル屋をやり、別の時には電気工事をやりました。土方の手先をやったこともあります。少なくとも当時の現場では既に女性の職人を見かけることは、あまりありませんでした。私が見た中では、内装などの一部の職域で見たくらいで、穴を掘ってどうのとか、土を積み上げてどうのというような仕事では見た事がありません。
ちなみに「土方」という言葉が差別用語であると言われることもありますが、この名称は土木を専門とする技能職の名称であって、私には差別用語であるとは思えません。事実、現場では他の職人たちも「土方さん」と呼んでいました。土方さんが居ないと工事が始められないほど、土方さんの仕事は重要だからです。もしも土方が差別用語ならば鳶職も左官も差別用語ということになってしまいます。
この「ヨイトマケの唄」では女性が土木工事に従事しながら子どもを育てる様子が歌われています。「父ちゃんのためならエンヤコラ、母ちゃんのためならエンヤコラ」というのは、労働歌です。この母親は苦労をしながらも子どもを育てるために努力しています。
また、母親が工事現場で働いていることが理由となって子どもがいじめられる様子も歌われています。女性が土木工事に従事する。それは、その家庭の貧しさの表れだったのでしょう。実に生々しい歌です。
母親も子どもも苦労をしています。この子どもは母親の生涯を「苦労苦労で死んでった」と歌っています。しかし、この苦労は単なる苦痛に過ぎなかったのでしょうか。この親子は不幸だったのでしょうか。私はそうは思いません。確かに苦しかったでしょう。しかし、この母親は苦労を通して大きな愛を遺しました。そして子どもはしっかりとその愛を受け取っています。
子どもも苦労をしましたが、頑張って大学を出て、一門の人間になりました。大人になった彼は証言しています。「母ちゃんの唄こそ世界一」。これは母親への讃美でしょう。そして最後に自分も歌います。「今も聞こえるヨイトマケの唄、今も聞こえるあの子守唄。父ちゃんのためならエンヤコラ、子どものためならエンヤコラ。」母親がまだ若かった当時を懐かしんで歌ったのでしょう。これほど互いへの愛情に満ちた親子が不幸であったわけがありません。そして、あの苦労の日々は今、素晴らしい思い出となって彼を支えています。
この歌ほどでなくとも、誰かのための働きはしんどいものです。その過程において、自分の小ささや無力さを突き付けられるかもしれません。努力によってその日得られる報酬は極々小さいでしょう。それでも、苦しむ人の様子にたまらなくなって手を伸ばす時から、苦しみが喜びへと作り変えられ始めます。
愛は実ると信じて、将来への希望を持って私たちは現在を、現実を生きます。希望が受け継がれる、それが私たちの勝利です。最も大きな勝利を収められた方こそイエスさまです。イエスさまは将来の、私たちの勝利を信じて肉体の苦痛を味わい、これを乗り越えて十字架の上で私たちのために祈ってくださいました。このイエスさまこそ救い主、キリストです。イエスさまこそ受肉した神の御子です。
世の中には、受け容れ難い不条理が満ちています。様々なところに争いがあり、平和であるとも、愛で満たされているとも言い切れないのが現実です。それでも、私たちはこの世を諦めません。この世を「悪である」とは言いません。世は未だ幼いのです。幼さは悪ではありません。この世は完成へと向かう途中に、成長する最中にあるのです。
「キリストを信じます」という告白は「救いを求めます。救われると信じます。未来を信じます。」という告白でもあります。この単純な一言を言えるようになった時、私たちにはうんざりするような世に打ち勝つという約束が与えられているのです。
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