聖霊降臨節第18主日礼拝説教

2024年9月15日

エフェソの信徒への手紙 3:14-21

「キリストは心の内に」

神さまはどこに居られるのでしょうか。

旧約聖書を見ますと、最初の内は神さまの居場所は固定されていませんでした。御心のままに人々に語り掛け、時に祝福し、時に戒めを与えられました。神の民の父であるアブラハムはカルデアのウルからカナンに向かう旅をしていましたが、その間ずっと神さまはアブラハムを導かれました。その後、イサク、ヤコブ、ヨセフに至っても、神さまはその民と共に居られましたが、居場所を明らかにはされませんでした。

モーセの時代になりますと、状況が少し変わります。モーセは神の民を率いてエジプトから約束の土地を目指す旅をしますが、この途中で神さまはモーセに幕屋の建設を指示なさいます。幕屋とは、会見が必要な時にはそこに入られるためのテントです。この幕屋は、旅をする神の民の集まりからは離れたところに建てられましたが、神の民はこれがあることで神さまが自分たちの中に住まわれていると確信できました。また、この幕屋は分解して運べたので、民がどこに行ったとしても、行った先でこれを組み立てれば、会見もできましたし、神さまの臨在も示されました。

更に時代が下りますと、神の民は神さまの居場所を固定しようとします。シロに幕屋が安置されると、そこから動かなくなり、人々は神さまの御心と御言葉を求める時にはシロにやってきました。

人々が王を頂くようになると、ダビデは都エルサレムに神殿を築こうと計画します。ただ、これは神さまの御心にはかなわなかったので、ダビデは建築資材を集めるだけで実際には建設できませんでした。

ダビデの思いは、その子ソロモンに引き継がれます。ソロモンは長い年月をかけて神殿を完成させます。深い祈りをもって捧げた神殿を、神さまは祝福し、聖別し、「私は絶えずこれに目を向け、心を寄せる」という約束を与えられました。

立派な神殿が出来た。それは一見、良い出来事であるように見えますが、ここから腐敗が始まりました。神さまの居場所が固定されてしまったのです。神殿で神さまに仕える人々が、神さまの御心を固定してしまったのです。それでも、人々の信仰は神殿に集まります。神殿が権威を持ち、人の欲望の中心となってしまいました。

ヨハネによる福音書では、イエスさまは宣教の初めに宮清めを行われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われ、神殿の権威から人々を解き放ち、神さまの御心は人の思いや欲望などによって固定されるべきものではないと示されます。

しかし、神殿を中心とした伝統と権威を重んじるユダヤ人たちは、イエスさまを受け容れようとはしませんでした。神さまをお迎えし、御心と御言葉を聴くために集まるはずの神殿が、神さまの赦し、御心と御言葉への拒絶を象徴するようになってしまいました。

だから、最初期のキリスト教会に集まった人々も、使徒も、それに連なる私たちも、建物の中に神さまやキリストが宿るとは考えません。今日読まれた、エフェソの信徒への手紙第3章14節から21節までは、この手紙の前半を締め括る執り成しの祈りですが、「神さまがあなた方の信仰によって、あなた方の心の内にキリストを住まわせてくださるように。」と願っています。神さまは、そして救い主キリストは、立派な神殿に住まわれるのではなく、信じる私たちの心に住まわれるのです。

信じる私たちの心に住まわれるキリストは、その深い愛への気付きを更に与え、愛に根差した豊かな命を生きるように、私たちを導かれます。

キリストに出会い、信仰を与えられた時、人は最早自分の力ではなく、自分の内側に働くキリストの力に突き動かされて生き始めます。それは、一度限りの体験とは限りません。続く4章に「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着なさい」とあるように、人生の歩みの中で古い自分から自由になり、新しい自分に生まれ変わる、いわば死と復活の繰り返される追体験を通して信仰者は成長させられ、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」を知るようになります。神さまの御心は、どこかに留まっているのではなく、世を満たしていて、人はそのただ中を生きている、神さまはどこか私たちから離れた所に留まっておられるのではなく、私たちのただ中に住んでおられると気付くのです。

私たちは、この教会に神さまを御留めしようとは考えません。むしろ、この教会から世界に対して神さまの御言葉を、愛を広めようと考えています。対立しあう考えを持つ人々や共同体、異なる宗教や文化を背景に持つ人々も、愛を求め、愛の内に生きたいと願っているという点においては、私たちと同じです。この愛によって私たちは一致できると確信しています。一致の可能性を世に対する私たちの姿勢や態度を通して知らしめるのです。

この世に住む人々は他者との関係において、理想的な関係の中にあるとは言えません。様々なところで関係の破れを経験します。そんな中で、日本人は自分が悪いと思わなくても「ごめんなさい」と折れて、ものごとを丸く収めようとする傾向があります。この「ごめんなさい」と言う言葉ですが、この言葉がことを丸く収めるどころか、逆に人の心に突き刺さってしまう可能性があると、私たちは知っておく必要があります。

「ごめんなさい」という言葉が、拒絶の言葉として受け取られてしまう可能性があるのです。「もう良いから、私が悪いということにして、この議論を終わらせましょう」という姿勢であると誤解される場合があるのです。

どのような場面においても、対話の一方的な打ち切りは人を傷付けます。その人が話をしようとしている時に、「もう良いよ」と言葉を遮り、対話を打ち切ってしまったら、その人の思いはどこにも行けなくなってしまいます。自分は捨てられたと感じてしまうのです。たとえそれが衝突であったとしても、衝突もまた対話の一つの形なのです。

神さまは人との対話を中断なさったでしょうか。歴史の中で神の民は度々神さまの御心に背きましたが、それでも神さまは関係を絶とうとはされませんでした。時には教え諭し、時には戒め、ついには限りの無い赦しによって私たちとの関係を保とうと努力なさいました。普通であれば「もう良いよ」と諦めてしまうのではないかと思われますが、神さまは決して諦めずに私たちと関り続けてくださいます。私たちのただ中に、私とあなたの間に、あなたとあなたの間に住まわれ、御自身との結び付きを守られ、私たち同士の結び付きを守られます。

十字架の縦の棒と横の棒には意味があります。それは皆さんも既に御存知です。縦の棒は神さまと私たちとの繋がり、横の棒は私たち同士の繋がりを意味しています。十字架を仰ぐとき、私たちの中心にキリストが居られて、神さまと私たちを、私たちと同じように世に住む人々とを結び付けてくださっていると確認し、確信するのです。

神さまはいつも私たちと一緒に居てくださいます。私たちのただ中に住んでくださっています。この神さまの熱意を感じながら生きていたいと願います。

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