2024年9月29日
コリントの信徒への手紙Ⅱ 5:1-10
「天の住み家」
「黙示」と聞きますと、多くの方がヨハネの黙示録を連想されると思いますが、ダニエル書も旧約の時代に記された黙示文学の一つです。黙示文学の特徴は、夢や幻を通じて、それらに秘められた真実や真理を知らせようとしている点にあります。ダニエルも、夢解きや幻を通じて、その時代を生きた人々に信仰者としての生き方を示し、励ましました。
今日の御言葉は、ペルシャ王キュロスの治世第3年にダニエルが見た最後の幻で、特に12章は終わりの時が主題となっています。二つの国の王が、互いに張り合って戦います。土地も人々の心も荒れ果て、それまで守って来た信仰も踏みにじられる中、祖先からの信仰を守り続けた人々が居ました。周囲の国々が敵対し、軍隊を進めて来る中で王は助けを喪いますが、信仰を守った人々の傍らには大天使ミカエルが立ちます。
世の中が混乱し、正しく生きようが、そうでなかろうが、ふとした弾みで何もかもが失われかねないような世の中にあっては、人々は正しく生きるための動機を喪います。それでも、正しく生きたいと願い続ける人々ひとりひとりの名を神さまは忘れず、命の書に記しておられます。それらの人々も他の人々と同じように、地上の生を終えると眠りにつきますが、その時が来たら目覚めるのだとダニエルは説きます。これが復活信仰の始まりです。
復活信仰は、宗教的な哲学や思弁からではなく、迫害という日常生活の中における現実との対峙から生まれました。世の中に正義が失われている。正しく生きたいと願い、そのように努めている者が馬鹿を見るような時代にあって、神さまは何故沈黙を守られるのだろうと人々は問う人々にとって、ダニエルの語る幻は希望の根拠となり、正しくいきるための支えとなりました。
パウロもまた苦しみの中に置かれていました。迫害と反対者による誹謗中傷、さらには何等かの病気を抱えたパウロの宣教旅行は困難を極めていました。コリントの教会も偽教師たちによって一時は内部分裂が生じるほど混乱させられましたが、福音を見失うまいと努める人々にパウロは励ましの手紙を送ります。
「地上の住み家である幕屋」とは、普段の生活の在りようを指しています。神さまの愛に応えたいと願う者にとっては、御心に適う生き方を求めるのは自然な発想でしょう。しかし、この考え方には危うさも含まれています。パウロの時代にも既に正しい生き方の追求をする人々が居ました。これらの人々はイエスさまの時代にも居て、度々イエスさまと衝突していました。いわゆる律法主義者たちです。
福音書において彼らは人々の生活を縛る者として登場しますが、律法主義が誕生した経緯は極めて素朴な思いでした。キリスト者と同じ、私たちと同じように、神さまの愛に応えたかったのです。ただ、その方法はいつしか形骸化し、本来の願いを見失わせ、人々の生活を縛るようになってしまったのです。
だからパウロは、そのような危険をコリントの人々から遠ざけるために、普段の生活を「幕屋」ですとか「着物」という言葉で表現しました。
普段の生活は儚いものでしかないかもしれない。神さまの御心に適っているかどうか分からなくて、悩むかもしれない。しかし、家の中にあるもの、あるいは着物の中にあるものが神さまの御心を求め続けるならば、私たちが自分の生活を変えようとしなくても、神さまが私たちの生活を覆うようにして、御心に適う姿に変えてくださると言うのです。
私は落語が好きで、時々聞くのですが、登場人物の言葉や振舞から江戸時代あたりの人々がどのように生活していたのか、どのように生活を捕らえていたのかが想像できます。例えば服装についての考え方は、今日の御言葉の理解を助けるのではないかと思います。
下町に住む人々の多くは貧しくて、着物もたくさんは持てません。立派な着物なんて、仮に手に入れたとしても、じきに質屋に入れて生活費に変えてしまいます。それでも、畏まった場に出なければならない時には、それなりの服装をしなければなりません。そんな時にはどうするかと言いますと、長屋の大家さんあたりに相談して、羽織を貸してもらいます。中身は普段着でも、羽織がボロを覆ってくれるので、パリッとして見えるというわけです。まぁ、チグハグな組み合わせに見えるかもしれませんが、誰も文句は付けません。身形を整えようとしたという努力をもって良しとするのでしょう。
これに近い考え方は今でも、特に着物で仕事をする人たちに残っていまして、仕事をする際には簡素な着物で、帯の結び方もそれなりでしかないのですが、咄嗟にお得意さんに呼ばれたりした時などには、ぱっと見はキチンとしているように羽織を着るのだそうです。
誤魔化しと言ってしまえば、その通りなのですが、では形を整えるために普段の生活をないがしろにできるかと言うと、それでは本末転倒です。問われるべきは外側の綺麗さではなく、中身の誠実さです。御前に立てるように努めたという、誠実さを神さまは良しとしてくださるのです。今日の日課から外れてしまいますが、ルカによる福音書においてイエスさまは仰いました。
「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」
自分の内を満たす神さまの愛に気付き、その呼び掛ける声に応え、他者の内を満たす神さまの愛に気付き、それを受け容れ、交流する時、愛し合う時、仮に私たちの生活がお粗末であったとしても、神さまは御手で私たちの生活を覆い、良いものと見做してくださるのです。
ラザロが死んでしまった時、べタニアに駆け付けたイエスさまは墓に来られました。墓穴を塞ぐ石をどけるように御命じになると、マルタは「もう四日も経っているから臭います」と止めます。イエスさまはマルタの言葉を退けられます。
「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」
そして祈りを捧げた後、ラザロに出て来るように命じられると、果たして死んでいたはずのラザロが出て来ました。
ラザロが特別だからイエスさまは生き返らせられたのでしょうか。ラザロに何かの功績があるからでしょうか。ラザロの信仰が立派だったからでしょうか。ラザロは私たちと何ら変わらない普通の人間です。イエスさまが墓の前で捧げられた祈りは信仰告白です。イエスさまの信仰の故に神さまはラザロを生き返らせてくださいました。主は、御自身の信仰によって、私たちの不充分な信仰を補って下さるのです。主イエスは私たちの罪を覆い、信仰を補い、私たちが不完全なままでも義と見做してくださるのです。
私たちに用意されている報いとは何でしょうか。赦しです。神さまは私たちを罪深いまま、ありのまま、ボロを着たままで受け容れて下さるのです。赦して下さるのです。私たち名前は既に命の書に書き記されています。それが私たちの希望なのです。
今の生活を否定しないでください。今の生活を卑下しないでください。与えられた状況の中であなたは一所懸命に生きています。神さまはそんなあなたを愛しておられます。私たちはただ、そんな神さまに感謝し、賛美するのです。
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