聖霊降臨節第17主日礼拝説教

2024年9月8日

ペトロの手紙Ⅰ 2:11-25

「上に立つ人々」

今日与えられましたこの箇所は、恣意的な解釈が行われると大変危険な箇所です。特に国家や権力を持つ立場にある人々がこれを自分たちへの盲目的な従順を強いるために用いられると、とても危険な御言葉となってしまいます。ペトロを通して示されたこの御言葉の意味はそうではないのです。神さまはこの御言葉を通して、私たちにいかなる時も平和を愛する者であれ、平和を表す者であれと勧めているのです。

今日読まれた箇所よりも後、5章においてペトロは自らを「キリストの受難の証人」であると称しています。御受難の様子、御最期に至るまで従順であったイエスさまの御姿を知る者として、ペトロは、どのような状況下であったとしてもライオンや狼のようになるのではなく、羊としてイエスさまに従いなさいと勧めるのです。

この手紙を受け取った人々とは、改宗したばかりの異邦人キリスト者でした。ペトロはこの人たちに対して、「あなたたちはこの世では寄留者であり、滞在者である。」と言います。この言葉は当時のキリスト者の立場を良く言い表しています。キリスト者は、周りに暮らしているほとんどの人がキリストを知らない中で、散らされているように生きていたのです。

このキリスト者たちの生活は、キリスト者の集会に属するようになったために、それまでの生活とは異なるものとなりました。それまで普通に行っていた、この世的な付き合いを避けるようになったのです。従って、この世の事情も充分に考慮しなければ、そのために軽蔑や圧迫を受けるだけではなく、敵視や苦難、場合によっては懲罰にすら身を曝されかねない状況に置かれて居ました。

それぞれのキリスト者は、おのおの置かれた状況において、自分がどのように振舞うべきなのかを決断します。世の習慣に倣って良い物か、どこに線を引くべきなのか悩むのです。それはその人の立場や考え方によって違ってくるでしょう。この決断をするに際して、キリスト者としての視点を忘れなければ、どのような状況においても悩む必要はありません。

世の価値観は、基本的には肉体的な幸福の追求が人間の自然の欲求であり、在り方であるという立場であると言って良いでしょう。特に初代教会の時代はそうでした。ですから、それらから離れて生きようとするキリスト者たちを見た人々は違和感を覚えました。

欲求に従って生きるのが、彼らにとっては当たり前だったのです。しかし、キリスト者は、それこそ自分たちを縛るものであるとして、欲を退けようとしたのです。そこで摩擦が置きました。この違和感が自分たちへの害意へと変わるのではないか、敵意へと変わりつつあるのではないかとキリスト者たちは悩んだでしょう。彼らに対してペトロは言います。

「人によって何に強く惹きつけられるかは違うでしょうが、それらから自由であったならば、そして私たちが正しいと信じる行いをやめず、言動に一貫性があったならば、周りに居る人は最初こそ戸惑うかもしれませんが、必ず理解を得られるでしょう。そして、全てが明らかになった時、その人たちも神さまを知り、崇めるようになるのです。」

私たちの生きる姿が私たちの周りに居る人々への宣教となるのだとペトロは言うのです。そして、ペトロの視線は国家や社会との関係に及びます。

初代教会の様子について考える時、この頃のキリスト者たちが受けていた迫害を忘れるわけにはいきません。ただ、この手紙の当時はまだ国家による大々的な迫害にまでは至っていません。それもあって、ペトロはキリスト者たちに国の代表者である皇帝に対しても従順であれと勧めるのです。

冒頭でも申し上げましたが、これは国家や体制に盲目的に従えという意味ではありません。私たちにはキリストを証しするという務めが与えられています。この務めに対して誠実であろうとするならば、例えば国や社会に対しても批判的な捉え方をしなければなりません。

どうも日本人は「批判的」と言う言葉を、ダメだしをすることだと思ってしまいがちですが、批判的であるとは否定的であるという意味ではありません。「批判的」とは客観的に、第三者的にその事柄を捉えるという意味です。誰だって否定的な意見をぶつけられたら身構えてしまいます。そのようなアプローチの仕方をペトロは勧めていません。

私たちはキリスト者としての生き方の正しさを証明するためにも、誰からも非難を受ける余地のない生き方をしなければなりません。そうでなければ、「あの考え方は社会を乱す」と考えられ、受け容れてもらえなくなるでしょう。だからこそ、私たちは今ある秩序を重んじるべきなのです。

いつの時代にも私たちは問題や課題に直面しています。しかし、秩序の中にあって、適切な手段で、穏当にそれらの問題に向き合うべきなのです。

皇帝や総督は法を代表する者です。法から逸脱する者を罰するのが彼らの役目です。法は、相手が誰であっても同じように適用されます。相手によって態度を変えたりはしません。法に背く者はその咎を指摘されますが、同時に、法に背いていなければ誰からも責められるべき理由はありません。発言する必要があるのであれば、相手に私たちを否定する口実を与えることなく、言うべきことを言う。それこそ利口なやり方ではないでしょうか。

暴力的な手段やウソ、事実の歪曲によって理解を得られるでしょうか。そのようなやり方で神さまを証しできますか。それらは結局無力なのです。私たちの全てを知ってもらいたい、私たちの信じているお方を知ってもらいたいと願うのであれば、私たちが正直でなければ、善意で向き合わなければその望みはかないません。

そして私たちもまた、私たちの周りに居る人々を善意で見なければ、その人たちとの信頼関係など築けません。だから、批判的であっても否定的になってはならないのです。その前提として、私たちは私たちの心を縛るものから自由でなければなりません。

私たちはどうしても「こうでなければならない」「こうあるべきだ」という、いわゆる「べき論」に縛られてしまいます。これに捕らえられている間は、他の価値観を受け入れられません。「私の考える正義」が私たちの足枷になってしまいます。私たちには「神さまが望まれる正義」こそが必要なのです。主の導きが必要なのです。

わたしたちは全ての人々を教会に、主の食卓に招きたいと願っています。初代教会もそうでした。全ての人々を受け入れていました。当然中には奴隷である人々も等しく兄弟として食卓を囲んでいました。もしも奴隷である兄弟の尊厳が冒された時には、それは厳しく非難されました。その様子はコリントの信徒への手紙から読み取れます。教会の中では自由民であるとか、ローマ市民であるとか、奴隷であるとかという身分制度は関係がなかったのです。

しかしペトロは奴隷である人々に対して従順であるように勧めます。それが秩序だと言うのです。

今も昔も、その秩序その物に問題がある場合もあるでしょう。当時の教会にとっては、奴隷制度がその問題でした。教会はその問題にどのように向き合ったのでしょうか。初代教会の人々は、「もはや変わることも、過ぎゆくこともない最終的な秩序、本物の平和をもたらす新しい時代」を待ち望みました。これを実現するための手段として、既存の秩序に攻撃を加えるのではなく、むしろ内側からこれに迫り、キリストの精神を人々の心に満たしてもってそれを為そうとしたのです。

奴隷の主人に対する従順は、求められていた義務でした。ペトロは、義務は義務として果たし、秩序の中で正しい行いをすることによって不当な義務を押し付ける者に理解を促すように勧めたのです。これが言わば、初代教会が行おうとした改革・刷新運動なのです。

どこにでも問題は存在しています。摩擦は存在しています。これらに対して私たちはライオンになるべきでしょうか。狼になるべきでしょうか。

イエスさまは御最期に至るまで従順を示されました。何のためにでしょうか。私たちに罪の赦しを得させるため、神さまの愛を知らせるためです。イエスさまに暴力はありましたか。偽りはありましたか。イエスさまは秩序を乱されたでしょうか。イエスさまはご自身を虐待する者たちに対しても脅迫をせず、ご自身に憎悪を抱く者へも復讐心を持たれませんでした。ただ、神さまから与えられた使命を黙って貫徹なさいました。

キリスト者にとっての課題は、この主の御跡を踏めるかどうかなのです。

私たちはこの道を踏めるでしょうか。自分の力だけではできません。使徒たちにもできませんでした。私たちは力無き者なのです。彷徨う羊のように、風が吹いたら流され、すぐに迷子になってしまう、自らの進むべき道を知らず、途方に暮れる無力な者なのです。もしかし、今やキリスト・イエスが私たちの牧者、監督者として私たちを導いて下さいます。

徹底的に従順であった主が私たちを導かれるのです。誰に対しても敵ではなかった、あの主と同じ道を歩むことを望むのです。だから、私たちは誰をも罵りません。誰に対しても敵意を向けません。不正を訴える時にも世の人々に「あの人々は真心の人たちだ。あの人々は真心から訴えかけているのだ。」と好意的に受け取ってもらえるような手段、言葉、態度をとるのです。人々に受け入れてもらえるように、人々を受け入れるのです。

世の人々との違いが何であるか。どこに最大の違いがあるのかと問われた時、私はこう答えます。

「私たちは希望を語れる。」

いつか必ず分かり合える。いつか必ず、誰もが友となれる。いつか必ず平和が来る。何事に対しても、私たちは希望を持てるのです。そして、私たちにも主の御跡を踏める。そう希望できるのです。

世の人々はそれを楽観主義だ、場合によっては無責任だと言うかもしれません。しかし、私たちにはその希望を信じられるのです。信仰が希望を与えるのです。どんな時でも希望は私たちから離れないのです。

この希望によって、イエスさまを証ししたい。そう願うのです。

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