2025年1月12日
マタイによる福音書 3:13-17
「イエスの受洗」
エジプトから戻られたイエスさまは、子ども時代をガリラヤのナザレで過ごされました。そして、子ども時代を終えられると、公生涯を始めるに先立ってヨルダン川においでになりました。そこでは、洗礼者ヨハネは救い主の先駆けとして、ヨルダン川のほとりで人々に悔い改めを訴え、罪の赦しを与える洗礼を施していました。
ヨハネは、全身を「活きた水」、つまり流れている水の中に浸す形で洗礼を授けていました。イエスさま御自身が経験なさったように、もともと洗礼は川や池など、野外で行われていました。後に教会の建物などの施設が整えられていくに従って、屋内の洗礼槽などが整えられました。この洗礼槽をミクヴェと言います。
現代では川で洗礼を受ける、授けるという教会はあまりありません。ほとんどの教会では、洗礼盤に用意した水を牧師が手で掬い、それを受洗志願者の額に注いで洗礼を授けています。この形式では、大量の水が私たちの全身を包み込む、水に沈み、引き上げられるという、洗礼が本来持っているイメージが、どうしても弱まってしまいます。
水の中に沈んでいる間は息ができません。人が息を止めていられる時間は、1分か1分半程度が精々でしょう。あまりにも長い間、水の中に沈められていると、苦しくなって肺に溜めていた空気を吐きだし、新たに空気を吸おうとしますが、水の中で息を吸おうとすると空気の代わりに水が肺を満たし、溺れてしまいます。新しい人間への生まれ変わりを意味する洗礼の水は、命の水であると同時に、洗礼を受ける前の古い自分、神さまと出会う前の自分、つまり神さまと離れた生き方という罪を滅ぼす死の水でもあります。
イエスさまには滅ぼされるべき罪はありませんでした。だから、洗礼者ヨハネはイエスさまが洗礼を申し出られた時、むしろあなたが私に洗礼を授けてくださるべき立場だと言って、思いとどまってくださるようにお願いしました。
イエスさまはこれに「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と答え、今はイエスさまがヨハネから洗礼を受ける必要があるのだと説かれます。イエスさまは私たちの罪を負い、それを清めるための御生涯を、この洗礼から始められたのです。また、「正しいことを全て行う」、これは「義を全て満たすため」という意味です。神さまの御心を受け容れて、御心に従って生きる姿勢を表しています。
イエスさまが洗礼をお受けになり、水から上がられると、三つの不思議な出来事が起こります。まず、天が開けました。これは啓示の始まり、天の国が近付いて、イエスさまが救い主としての活動を始められるというしるしです。
次いで、聖霊が鳩のような姿でイエスさまに下りました。
救い主、メシアとは本来「油を注がれた者」という意味の言葉です。旧約聖書を見ますと、新たな王として油を注がれたダビデに神さまの霊が激しく降ったという描写があります。イエスさまには油という媒介は必要ありませんでした。神さまとの直接の関係の中にあるイエスさまには、聖霊が直接注がれました。
最後に、天からの声が響きます。「これは私の愛する子、私の心に適う者」
聖霊が注がれた今、神さまはイエスさまこそ御心によって立てられた救い主であり、その口から出る御言葉、そのなさる御業が神さまの御意志であると示されました。これより後、メシアの時代、救い主の時代が始まります。
人は水が無いと渇いて死んでしまいますが、水は危険物でもあります。水は恵みの手段であると同時に、死の象徴でもあります。私たちも洗礼を受けましたが、これは私たちが水の中を通り、天が開けるのを見る経験、神さまとの交わりに招かれ、そこに突入するという命がけの経験でした。古代のミクヴェの中には、女性の子宮を模った者や、ノアの洪水の後に生き残った8人を象徴として、八角形の物があったりしましたが、これは新しく生まれる、死をくぐり抜けて新しい命を生きるという洗礼への理解を裏付けています。
私たちキリスト者は、誰もがこうした危険な経験を経て、神の民の一人に加えられました。ローマの信徒への手紙には「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」という言葉があります。水をくぐる、洗礼とは、この勧めへの応答でもありました。
洗礼は、その時の気持ちで受ける情緒的な体験でもなければ、自分だけの個人的な体験として完結するものでもありません。これからの人生を神さまと共に歩む、また神さまによって一つの身体を形作る者同士の交わりの中で生きるという決意の表明でもあります。
イエスさまは、まさにこれを御最期に至るまで貫かれました。神さまの御心を御自身の願いとして行われ、御自身を慕う人たちを神の家族として、食卓を共に囲む者として愛し抜かれました。
今の私たちにとって、洗礼は教会全体の喜びと感謝のもとで生じる出来事であり、教会共同体を形作る出来事でもあります。
イエスさまが洗礼を受けられたように、私たちもイエスさまにならって洗礼を受けます。そして、イエスさまと同じように「これは私の愛する子」と呼び掛けて下さる神さまの御声を聞きます。出来るならば、水の中から立ち上がった後、イエスさまとひとつにされて、神さまの御心に適う者として歩み通せるよう、常に祈りましょう。
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