2025年1月19日
マタイによる福音書 4:18-25
「人間をとる漁師に」
今日、読まれた箇所には、宣教を始められたイエスさまの周りに人が集まり始めた様子が描かれています。これは、イエスさまに惹かれる人々の様子、イエスさまに招かれた人々の様子であると言えるでしょう。それはつまり、今の私たちの様子でもあります。何故私たちが御言葉を求めて集まるのか。どのような者が招かれているのか。そして、イエスさまがどのように私たちを迎え入れて下さるのか、イエスさまを慕い求める群れの姿が描かれています。
イエスさまはガリラヤ湖の周辺で宣教の御業を始められました。
ガリラヤの湖のほとりを歩まれたイエスさまはシモン・ペトロとアンデレの兄弟が湖に網を打っているのをご覧になりました。この二人とは面識があったはずです。イエスさまは洗礼者ヨハネによって洗礼をお受けになりましたが、ペトロとアンデレは二人ともヨハネの弟子であったことがヨハネによる福音書には記されています。
もしかするとヨハネが捕われる前には、多少の会話を交わす機会があったかもしれません。少なくとも、この時点ではイエスさまは既に宣教を始めておられましたから、この兄弟もイエスさまの御教えを耳にしたことがあったでしょう。
イエスさまは天の国の到来を告げ知らせておられました。全ての苦しみ、全ての痛みが癒され、あらゆる人々が和解する神の御支配が近付いていると主イエスは宣べ伝えられました。それは洗礼者ヨハネが語った神の怒りや裁きとは違うイメージでした。全てが赦され、互いに赦し合うことのできる、優しい時の到来でした。
この新しい教えはペトロとアンデレの心にも響いていました。苦しむ人々をたくさん見て来たから、また彼ら自身も苦しみを覚えていたから、そこに主が触れられた時、主イエスに従う事を決意したのでしょう。
この時、主が彼らに掛けた言葉には、伝道者にとって大切な資質があるということを後に伝道者となる二人に教えています。
主は二人に「人をとる漁師にしよう」と仰いました。
代々の教会において、人をとる漁師として大きな働きをなした人々が居ます。彼ら自身は強い人々ではありませんでした。むしろ苦しむ人々、弱い人々にこそ、大切な働きを与えられてきました。初代教会において主の御教えを地中海沿岸地方に広めたのは、エルサレムを追われアンティオキアに逃げて行った人々でした。教会を形成し、その後の神学の基礎を作った人々とは、社会に安らぎを見出すことが出来ず隠遁していた人々でした。教会が苦しむ人々をより多く助けることができるようになったのは、荒れ野に逃げていた人々が小さな力を持ちよったからです。教会が行き詰った時、それを打破する飛躍をさせたのは、自分自身の小ささに悩んだ人物でした。
世の中はいざ知らず、教会においては弱い人々こそが大切な働きをなしてきたのです。
ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも、似たような境遇だったのでしょう。この二人もただちに主に従いました。
イエスさまは彼らと共にガリラヤ中を旅されました。訪れた町々で主は、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、病気や患いを癒されました。聖書から神さまの御言葉を説き、喜びの到来を告げ、痛みや苦しみを覚える人々の声に耳を傾けられました。
この様子は国中に広まり、多くの人々がイエスさまの許を訪れるようになりました。マタイはこれらの人々が訴えた苦しみを並べています。
「病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など」とありますが、このうち「てんかんの者」は私には訳し過ぎのように思えます。原典では“σεληνιάζομαι”という単語が用いられていますが、この語源は“σεληνη”、月を意味する言葉です。英語に訳するならば“lunatic”という単語がそれに対応すると思います。
古代ヨーロッパの人々は月が人間に作用して苦しめることがあると考えていました。月の満ち欠けが人間の心を不安定にさせ、発作的な苦しみをもたらすと考えたのです。従って、ここで“σεληνιάζομαι”が意味しているのは、突発的な激しい苦しみ、発作的な苦しみ全般であり、それは身体的な苦痛のみではなく、精神的あるいは情緒的な苦しみ、例えば突如として襲い掛かる強烈な不安や理由を見出せない恐怖なども含んでいると考えます。
イエスさまは、身体の苦しみを訴える人々、心の苦しみを訴える人々を迎え入れ、受け容れ、寄り添われたのです。私は想像します。イエスさまはきっと、苦しむ人々を後回しにはなさらなかったでしょう。主に従うペトロたちもまた、主がそうなさるのを当然として、イエスさまに何かの用事があったとしても、じっと待ったことでしょう。後には自分たちも同じようにしたでしょう。
主に癒された人々は心から喜びました。そして同じように苦しむ人々に「あの方のところに行けば癒していただける」と伝えました。人の口伝に噂の伝わる速さは、私たちが考えるよりも遥かに早いものです。今のようなメディアの無い古代にあっても、大きな出来事は数日で一つの国全体に広まるくらいの速さは持っていました。
イエスさまがどのようなお方なのか、ガリラヤのみならず、ガリラヤ湖の東側にあるデカポリス、エルサレムを中心としたユダヤ、さらにはぺレアと呼ばれたヨルダン川の東側の地域からもイエスさまを求めて人々が集まるようになりました。
イエスさまが今日見せてくださった御姿は主に従いたいと願う私たちに、なすべきことを教えています。また何よりも、私たちがどのような者であるのかということを語っています。
私たちは、教会に集まる私たちはどのような者なのでしょうか。
私たちは礼拝の冒頭で「主は私たちを招かれた」という言葉を聞きます。私たちは主に招かれた人々です。主が招く人々とは、弱さを持つ人々です。では強い人はどうでしょう。主は強い人を招かれないのでしょうか。そもそも招かれない人というのは存在するのでしょうか。主は全ての人を招かれます。一見「あの人は強いだろう」と思われる人であっても、その裏に弱さが隠されていることが往々にしてあります。
私は漫才やコント、落語が好きで、隙間時間にはYouTubeでお笑いの動画を見たりもしています。
特に面白いと思う芸人さんの中に「ゾフィー」という二人組の芸人さんがいます。今は解散してしまいましたが、おもにコントを演じる芸人さんです。彼らのコントの中に、「一休さん」というネタがあります。モチーフとなっているのは、「屏風の虎」のエピソードです。
一休さんに将軍様が「このところ、夜な夜なこの虎が屏風を抜け出て暴れて困って居るから縛って欲しい。」と無茶なことを命じます。このコントでは、一休さんはこの無茶な要求に「無理です」と答えます。「それは降参するということか」という将軍様の問いには、「いえ、絵ですから無理です。もしかして将軍様は本当に絵の虎を縛る事ができると本気でお考えですか?」と逆に問う始末です。
観客は「コント」という笑いの世界、虚構の世界を楽しむためにコントを見ているわけです。また、モチーフとなったエピソードその物が、「屏風の虎が暴れる」という虚構を用いて、ある種の遊びを将軍が提示している形なのですが、このコントにおいて一休さんはそれをサラッと無視して、冷静すぎるほど冷静に現実を突き付けています。このシュールな姿に笑いが生じるわけですが、一休さんはさらに問いを続けます。
一休さんに対する将軍様の挑戦を「無理難題を吹っ掛ける問題行動」と捉え直し、「心の奥に満たされないものがあるのではないか」と問いかけ、ついには幼児期の体験に隠された苦しみを見付け出し、将軍様にそれを見詰め直す機会としてしまいます。
このままではお笑いとしては成立しませんので、ここでは「実は一休さんは自己啓発セミナーをやっていました」という落ちが付くわけですが、このコントには虚構の中に観客が共通の土台として立てる現実があり、さらに冷たい皮肉が一欠片入っているからこそ、笑える作品となっているのです。
このコントに隠されている現実とはなにか。それは、一見強そうに見える人でも弱さがあり、その弱さに触れられ、受け容れられた時、人間は他者に自分を開き、また他者を受け容れるようになるという、人の心の動きです。カルトや詐欺師はこの心の動きを悪用してつけ込むわけですが、それが冷たい皮肉としてこのコントに突き刺さっています。
カルトの手法、この場合は苦しみの根源を見詰めるに至る過程を共に歩くという手法は、本当は主がなさったことであり、私たちがすべき教会の働きなのです。入口は同じなのですが、目指す目的地が違うのです。カルトや詐欺師の目指す目的地は、弱い人々から吸い上げる利益であるのに対して、私たちの目指す目的地は、主と、その人と共に歩む真理の道です。
イエスさまが声を掛けた人々はみんな弱い人でした。主に従った十二の弟子たちも弱い人でした。私たちと何ら変わらない、弱い人でした。弱い人々が弱い人々を受け容れ、共にイエスさまの御言葉を分かち合い、一緒に癒していただいていたのです。十字架の時、弟子たちの筆頭であるペトロが、隠されていた弱さを誰よりもハッキリと表しました。
その弱い弟子たちが御言葉によって育てられ、主の十字架への歩みによって自らの弱さを知り、十字架に登られた主によって弱さを赦され、御言葉を伝える者、人をとる漁師へと造り替えられたのです。
私たちの教会も同じです。ここに集まっている人に、強い人、特別な人など居ません。教会は、そこに集まって来る人々、招かれて来る人々の弱さを受け容れたいと願っています。私たちは弱いのです。そして私たちの弱さこそが、教会の礎となっているのです。
説教目次へ