2025年1月26日
マタイによる福音書 4:12-17
「イエスの伝道の始まり」
今日の御言葉では、イエスさまの宣教の始まりが語られています。これは神さまの人間への働きかけが変わった瞬間でもあります。荒れ野で悪魔からの試みを退けられた後、洗礼者ヨハネが逮捕されてしまいました。この当時ユダヤを収めていたヘロデ・アンティパスとへロディアの結婚を非難したことが逮捕の理由でした。
アンティパスはユダヤにとっては友好国であるナバテアの王女を妃に迎えていましたが、兄の妻へロディアに熱を上げた結果、最初の妃に愛想尽かしをされ、実家に逃げられてしまいました。ナバテアの王アレタスはこれに激怒し、戦争となってしまいました。ユダヤ軍は惨敗してしまいましたが、アンティパスは事態をローマに訴え、なんとか戦争を終結させます。
へロディアは夫と離婚し、ヘロデ・アンティパスと結婚しましたが、洗礼者ヨハネは、存命中の兄弟の妻を娶るという行為が信仰的に不当であると非難しました。また国民も、この結婚を否定的に捉えていました。戦争の切っ掛けとなってしまったのですから当然でしょう。宗教的な非難と政治的な非難が結び付いて政治的混乱に繋がる危険を感じたアンティパスは、神輿として誰かに担がれる前にヨハネを逮捕してしまったのです。
これを切っ掛けにイエスさまはガリラヤの町カファルナウムにおいでになりました。マタイはこの移動を「退いた」と表現していますが、イエスさまは決してお逃げになったわけではありません。そもそも、ガリラヤにもアンティパスの支配権は及んでおり、仮にイエスさまがアンティパスに睨まれていたとすれば、カファルナウムの町は決して安全ではありません。「退いた」という言葉は都の近くから遠くに移ったという意味合いです。
この時、時代は一つの転換点を迎えました。洗礼者ヨハネの時代、つまりメシアのための道備えの時代が終わり、メシア御自身が御業を行われる時代が始まりました。それは、悔い改めが突き付けられる時代から、天の国の到来が告げ知らされる時代の始まりでした。
ユダヤはヨルダン川の西側にあり、その中心地は首都エルサレムです。ガリラヤはユダヤの北に位置しています。ガリラヤの都市カファルナウムにはローマ軍の駐屯地や収税所があり、外国的な雰囲気を持つ大きな町として栄えていました。私たちの感覚で言うと、関東あたりに居たイエスさまは、東京あたりとは違う文化を持つ那覇のような土地に移られたというわけです。
この町はイエスさまの公生涯における宣教活動の中でも重要な意味を持つ、ガリラヤ伝道の根拠地となりました。ここでイエスさまは数々の奇蹟を行われました。ローマの百人隊長の僕が患っていた中風を癒したり、ペトロの姑の熱を治したり、穢れた霊に憑かれた人から悪霊を追い出したりなど、枚挙に暇がありません。後にこの町をイエスさまにとっての「自分の町」と記すほどに、イエスさまはカファルナウムで熱心に宣教なさいました。
この町への転居はイザヤによって既に預言されていました。ゼブルン、ナフタリ、湖沿いの道、ヨルダン川の向こう、異邦人のガリラヤ、これらは全て、ガリラヤ湖の周辺地域を指しています。
これらの町は暗闇、あるいは死の陰の地と規定され、人々に見下されていました。特にガリラヤは、もともとは北イスラエル王国の領地でしたが、紀元前8世紀にアッシリアによって征服されて以降、その支配権は多くの外国勢力の手の間を行き来し、その度に住民が強制移住させられたり、支配者側の民族の入植を受けたりして来ました。
この為、人種的にも宗教・文化的にも混淆状態となり、我こそ生粋のユダヤ人と考えるエルサレムあたりの人々からは「異邦人のガリラヤ」と蔑視されるようになったのです。紀元前1世紀に、アレクサンドロス・ヤンナイオスがユダヤの王となると、ユダヤはこれらの土地を奪還し、住民はユダヤ教に強制的に改宗させられましたが、イエスさまの時代にはまだ異教的雰囲気が強く残っていました。
イエスさまは、ユダヤの人々から見て赤の他人ではないけれども、身内とも言ってもらえない人々の住む町を宣教の場として選ばれました。これをマタイは宣教の転換点であると理解しています。
イエスさまは、闇の濃い場所に身を置かれました。それは、暗闇の中に居る人たちこそが光を必要としているとお考えになったからでしょう。そこで教えを語られる際には、やさしく噛み砕かれた言葉を用い、奇跡を行われ、耳でも目でも理解できるような仕方で、神を知らない人たちに神の御国の到来という喜びを告げられました。イエスさまがなさったのと同じような転換が、宣教の転換が今の教会に求められていると私は考えます。
歴史を見ますと、概ね500年置きに宣教の大転換が起きています。最初の500年では教義が形作られ、更にキリスト教はローマの国教となっています。次の500年では教会や修道院の組織化が行われ、教会が国と住民に強い影響力を発揮し始めます。さらに1500年代に入りますと宗教改革の時代に入ります。この時代の出来事で最も注目すべきは印刷技術の発展です。宗教改革者たちの主張が広く出版され、宗教改革者たちの主張が短時間で広範囲にわたって知られるようになります。
そして現代です。宗教そのものの在り様が問われ直すと同時に、情報伝達の速度が飛躍的に上がりました。また、伝え方も無限に増えたと言って良いでしょう。その一方で、情報の受け手は聞くべき情報を厳しく選びます。溢れるほどにたくさんの情報があるわけですから、それは当然でしょう。発信者側は、積極的に選んでもらえるような形で発信を、宣教をしなければならなくなりました。古典的な手法だけでは通じません。私たちは常に新しい宣教を探らなければならないのです。
このような時代には、様々な挑戦がなされます。そのほとんどは、見る者の目には滑稽に映るでしょう。挑戦の9割は、目新しく見えても実際さほどの効果を得られないでしょう。後にイエスさまはカファルナウムの町について嘆かれました。彼らは御業を見、御教えを聞いたにも関わらず信じなかったからです。しかし、中には信じる人々も居ました。同じように、私たちの挑戦、無数の挑戦の内の何パーセントかは必ず実ります。無数の挑戦のうちのいくつかが残り、残ったそれらが広く用いられるようになって、教会は宣教の転換点を乗り越えるのです。
洗礼者ヨハネの宣教はユダヤ人にしか向いていませんでした。彼は厳しく、迫る神の怒りと悔い改めを訴えていました。ヨハネの時代からイエスさまの時代へ、怒りの時代から赦しの時代へ、悔い改めの時代から癒しの時代、福音の時代へと変わる瞬間を私たちは目の当たりにしました。私たちの宣教もまた、これに倣って転換するのです。
世と向き合う姿勢、世に語り掛ける言葉、語り掛ける手法、全てを見直し、新しい宣教を始める時代の真っただ中で私たちは舟を漕ぐのです。