降誕節第2主日礼拝説教

2025年1月5日

マタイによる福音書 2:13-23

「エジプトへの避難」

神の御子がユダヤ人の王としてお生まれになると、東方の博士たちは星の運行によって知りました。彼らがどこの住人であったのか定かではありませんが、星の導きに従って彼らは旅をし、エルサレムに到着します。ヘロデ王に謁見するため、宮廷に参内した彼らはヘロデ王に問いました。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」

この言葉を聞いたヘロデは不安になりました。そこで博士たちに命じます。

「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝むから。」

この言葉はウソでした。ヘロデには王として生まれる赤子を拝む気持ちなどありませんでした。新たな王とはイスラエルを救う者、メシアでしたが、ヘロデは最初からこの赤子を殺してしまうつもりでした。彼にとっては自分の地位を脅かすものでしか無かったからです。

しかし、博士たちには夢で「ヘロデのところに帰るな」というお告げがあったので、ヘロデはこの赤子が誰なのかを知る事がありませんでした。その居場所すら正確には分かりませんでした。そのため、メシアが生まれると言われているベツレヘム一帯に住む、2歳以下の男の子を皆殺しにしてしまいました。これがいわゆる「ヘロデの幼児虐殺」です。

私たちは「ヘロデ」に、「残虐な王」というイメージを持っています。その背景には、この幼児虐殺という常軌を逸した行為が存在していると思います。実際、彼の残虐性を示す出来事はこの他にも存在しています。例えば、ユダヤ古代誌には、ヘロデが自らの死に際して、自分に敵対する人々を競馬場に閉じ込め、自分が息を引き取ると同時に全員を射殺するよう、妹サロメやその夫に命じたという記述が残されています。閉じ込められた人々で競馬場は一杯になったと言いますから、相当な人数です。ただし、ヘロデの死後、サロメらがこの命令を反故にしたため、実行されませんでした。

また、自分が死んだら、それぞれの家庭から誰か一人を殺すようにと命じました。これは言わば強制された殉死です。

何故、ヘロデはこのような命令を出したのでしょうか。彼は、自分が死んでも誰も悲しんでくれないと考えていたのです。自分の死に関連して大切な家族の一人が死ぬようにすれば、全ての国民が自分の死を悲しむようになると考えたのです。

これがどれほど馬鹿げた考え方であるか、最早論じる必要も無いでしょう。政敵の粛清にしても、幼児虐殺にしても、また殉死の強制にしても、私たちの想像を越えた異常な発想です。ただ、同時に疑問にも思うのです。彼がこのような考え方をするようになったのには、何か理由があるのでしょうか。

私はヘロデがユダヤ人に対して強い警戒心、もしかすると敵意とも呼べるような危機感を持っていたのではないかと考えています。

そもそも彼はユダヤ人ではありません。イドマヤ人です。イドマヤ人がユダヤ人の王となった理由は、ユダヤ民族の政治的な不安定さにありました。

ヘロデ王家の前には、ハスモン王家がユダヤを統治していました。ところが、この王家は常に内部で勢力争いを繰り返していました。王と大祭司が対立していたのです。ヘロデが若かった頃には、アリストブロス2世という人物が王であり、その兄であるヒルカノス2世という人物が大祭司でした。

ヒルカノス2世は争いごとや政治などには向かない、温厚な人物でした。そのため、権力の掌握を目指すアリストブロスによって退位させられてしまいました。そこでヒルカノス2世はヘロデの父、アンティパトロスを頼ったのです。

アンティパトロスはイドマヤ人の豪族でした。彼はヒルカノス2世を良く支え、大祭司の地位に復帰させます。その見返りとして、アンティパトロスは息子たちを地方の要職に据えました。ヘロデは盗賊団を壊滅させるなど、治安の維持に貢献し、高い評価を得ていました。

さらにアンティパトロスはヒルカノス2世の名を使って富を蓄積しました。ヒルカノス2世自身はそれを黙認していたのですが、周囲のユダヤ人はそれを面白く思いませんでした。ユダヤ人たちはアンティパトロスとヘロデの排除を企てます。彼らは最初、法的にこの親子を処刑しようとしました。事前にそれを察知したヘロデはダマスコに亡命し、危機を脱します。ところが父アンティパトロスはユダヤ人に毒殺されてしまいます。

ヘロデにとってユダヤ人とは、彼らに助力した父を殺し、自分をも殺そうとした人々、潜在的な敵意を持つ人々だったのです。後にヘロデは武力によってユダヤを制圧しますが、この過程で兄を殺されてしまいます。ヘロデにとって、不安定で身勝手なユダヤの安定的な統治は、自分の命を守るための手段だったのではないでしょうか。

彼の政治に関するバランス感覚は極めて優れたものがあったようです。ユダヤに対するローマの視線と異民族や異文化を極端に嫌うユダヤ人の気質を汲み取り、上手な外交と統治を行っていたと言えます。彼がユダヤ人ではなく、イドマヤ人であったために、ユダヤ人を客観視し、上手な統治ができたのかもしれません。

彼の治世においてローマとの関係は良好に維持されていましたし、国内でも大規模な反乱は起きていませんでした。彼の在位13年目には、少なくとも2年続いた大飢饉が発生しましたが、この時には個人的な財産を投じて穀物を輸入し、ユダヤ人だけではなくシリアの住民にまで配給しています。きっと、シリア人はユダヤに親愛の情を持ったでしょう。

ヘロデにとって、統治すべきユダヤ人は自分に殺意を持っている人々です。国民は彼を愛していませんでした。彼は国民を愛せたでしょうか。ヘロデにとっては空しい努力であったかもしれませんが、それでもなお、ユダヤを何とか上手に統治しようと努めました。

ヘロデは家庭の不和にも悩んでいました。彼はハスモン家から妻を迎えていますが、この妻はヘロデ暗殺計画の首謀者として捕らえられ処刑されています。この計画は未遂で終わりましたが、これは彼自身にとっても痛手で、さらにこの妻の母がクーデター騒ぎを起こしたこともあって、周囲に対する不信感は増し、敵対者を次々と粛清しました。

ヘロデは、難しい局面に置かれている国を何とか上手く経営しようと努力する一方で、王になる前からユダヤ人は彼を敵視し、常に命の危機に曝され、王となってからは身内にも命を狙われていました。それでもなお、ユダヤを捨てずに統治し、更には死後にも安定的に統治を継承させようと努力するヘロデの前に、東の国から博士たちがやって来て、「ユダヤの新しい王はどこにおいででしょうか」と尋ねるのです。

彼は不安になりました。彼の不安は、あの血みどろの日々がまた訪れるという不安だったのかもしれません。彼にとって、この世界とは、望むものを与えてくれず、望まないものだけを押し付ける、理不尽な存在だったのかもしれません。

あの戦いを繰り返したくない、その思いで幼児を皆殺しにするように命じたとするならば、ヘロデへの見方は少し変わるのではないでしょうか。多少の同情はできるのではないでしょうか。それでも彼のしたことは間違いです。

問題は彼の心に、若い頃に突き付けられた殺意によって生じた、心の傷にあるのです。

心の傷はどのようにすれば癒されるでしょうか。愛を知って初めて、心の痛みは癒されます。愛し、愛されてこそ、彼は不安から解き放たれるのです。誰かが自分の為に泣いてくれる。自分も誰かの為に泣く。愛し、愛される、そのような関係を彼は必要としていたのです。彼がすべきことは真の王である幼児の排除ではありませんでした。彼は、新たな王、救い主としてお生まれになった神の嬰児を愛し、拝むべきだったのです。ユダヤ人の新しい王は彼を戦いの泥沼に追いやるような方ではないからです。ユダヤ人の新しい王は、ヘロデのような人物をこそ泥沼から引き上げるためにお生まれになったからです。

ヨセフに主の天使が現れて告げました。

「起きて、幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げ、私が告げるまで、そこに居なさい。」

ヨセフは起きると直ちに幼子と母を連れてエジプトに避難します。そこには全く躊躇がありません。この事は、エジプトへの旅は神さまの御意志だと、ヨセフは知っているからです。

かつて、エジプトの地で奴隷として、苦しんでいたユダヤの人々を救い出すためにモーセが遣わされました。ユダヤの人々は泥まみれになってレンガ作りの苦役に従っていました。モーセは泥の中で苦しむユダヤの人々を導き出し、カナンに至るまでの旅を共に歩みました。

この幼子は全ての人々を救い出すためにお生まれになりました。イエスさまが導かれるのは、ユダヤの人々だけではありません。全ての人々と共に歩み、救い出すのです。

ヘロデの死後、三度主の天使が現れてイスラエルに戻るように命じます。残念ながら、彼は生きているうちにはイエスさまに出会う事がありませんでした。しかし、もしヘロデが救いを信じるのであれば、主はヘロデをも救い出されたでしょう。赦しを求めるのであれば、赦しを与えられたはずです。主イエスは全ての人に赦しを与えるために十字架への道のりを歩み通され、血を流されたのですから。イエスさまは私たち全ての救い主なのですから。だからこそ、ヘロデは新しい王を喜んで迎えるべきでした。イエスさまに出会ってほしかった。

私たちは既にイエスさまを知っています。イエスさまに出会っています。イエスさまはお生まれになった直後から、放浪の生活をなさっていました。ベツレヘムからエジプトへ行き、ナザレに行き、長じてからはガリラヤを巡り歩き、エルサレムへと旅をされました。

私たちはイエスさまを知っています。イエスさまが私たちに出会って下さったからです。旅をする私たちと出会って下さったからです。私たちが生まれた時から、私たちの旅を共に歩んで下さっています。私たちの旅が終わるまで、私たちと共に旅をして下さいます。イエスさまは私たちをどこに導こうとしておられるのでしょうか。

イエスさまが連れて行って下さるのは、エルサレムではありません。神殿ではありません。もっともっと素晴らしい所です。イエスさまは私たちを神さまの愛の御手の中へと導いて下さるのです。

例えそれが苦しい道のりだったとしても。神さまによって導かれた御子が今、私たちを導かれるのです。

説教目次へ