2025年2月2日
マタイによる福音書 21:12-16
「イエスの大掃除」
イエスさまはエルサレムの都に入られると、神殿においでになりました。時期は過ぎ越し祭の少し前であり、多くの参拝客で神殿は賑わっていました。
神殿の入口を入ると、まず異邦人の庭と呼ばれる区域があります。ここは神殿の境内でも、最も外側に位置しており、文字通り異邦人のためのスペースとして設けられていました。見方を変えますと、異邦人、外国人は、例え信仰があったとしても、ここまでしか立ち入りを許可されていませんでした。
この庭には「隔ての壁」と呼ばれる高さ1.2mの壁が設置されていて、「これより中に入る異邦人は、死刑に処す」という表示が掲げられていました。ユダヤの人々は神さまの祝福は神の民、イスラエルにのみ限定して与えられており、異邦人は祝福から切り離されていると考えていました。この壁は、ユダヤ人の思想を目に見える形で表していました。
信仰を持つ異邦人が神殿に詣でたいと望んだ場合、この異邦人の庭が彼らにとって祈りのためのスペースとなるはずでしたが、ここには祈りの場として相応しくない雰囲気が満ちていました。多くの屋台が並んで商売をしていたからです。
ここで扱われていた商品は、神さまに捧げるための動物でした。例えば羊や山羊、はとなどです。
レビ記の記述を見ますと、神さまに捧げられる生贄は無傷でなければいけませんでした。これは、神さまに良いものを捧げたいという気持ちの表れとしては、ごく自然な発想でしょう。しかし、神殿に訪れる者の中には遠くから来る人も居ます。そういう人が仮に羊を捧げようとした場合、羊を連れての長旅をしなければならなくなります。すると、家を出る時には無傷であったはずが、道中で擦り剝いて傷を作ってしまうかもしれません。そうなると、せっかく用意したのに神さまにはお捧げできなくなってしまいます。
そこで、昔の祭司たちは考えました。予め傷の無い動物を神殿の方で用意しておき、これを買えるようにすれば、そこで売り買いされる動物は参拝客が買う時点で神殿の検査を受けているのだから、参拝客も安心できるだろう。
実に合理的なシステムであったと思います。遠くから来る参拝客は犠牲の動物への心配をしなくても良くなり、道中がかなり楽になったと思います。
ところが、時代が下っていくと、このシステムを悪用する者たちが現れます。彼らは神殿の祭司たちと手を組みました。祭司たちは、自分たちと手を組んだ商人から買った動物以外を受け付けなくなってしまいました。生贄の検査をする時に、様々な理由を付けては不合格にしてしまうのです。これによって、商人たちは市場を独占し、大きな利益を生贄に乗せるようになりました。この利益の一部はマージンとして祭司たちの懐にも入りました。
また、両替商も異邦人の庭で店を開いていました。この当時、地中海世界で通用していたコインには、多くの場合為政者のレリーフが刻んでありました。例えば、時の皇帝の横顔などです。
律法には「いかなる偶像も刻んではならない」とあります。コインに刻まれたレリーフも偶像と見做されました。このようなコインは神さまにお捧げするのに相応しくないと考えた彼らは、偶像を刻んでいないコインを用意し、普段使っているレリーフ付きのコインと交換するように求めました。
これも、先ほどの生贄の動物の時と同じように、無垢な発想から生まれたサービスでしたが、後に腐敗し、商人や祭司たちの懐を満たす収入源となりました。
それらは、公然の秘密だったのでしょう。誰もが知っているけど、誰も敢えて抗議しようとしない。何故ならば、神殿から敵視されると人付き合いができなくなってしまう、生きていけなくなってしまうからです。
イエスさまは敢然と、この不正を批判なさいました。商人たちの店をひっくり返し、イザヤ書の御言葉を根拠に、その間違いを指摘なさいます。
ここで主が引用なさった御言葉では、異邦人も主を信じ、愛するならば、祈りの家の祝いに連なる者となる。また、神さまは彼らの捧げものを受け容れられるとあります。それゆえに、「わたしの家は、全ての民の祈りの家と呼ばれる」とあります。
イエスさまが御覧になった神殿は、どのような有様だったでしょう。信仰を持って神殿を訪れた異邦人は、神殿の中枢には近付けません。それどころか、彼らが神さまに近付けないように、壁が設けてあります。祈りの場として用意されていたはずの場所には無数の屋台がありますから、ここでは落ち着いて祈れないでしょう。しかも、この屋台は参拝者たちが用意した捧げものを拒絶し、収奪するシステムです。何もかもが、聖書の教え、神さまの御心とは逆の方向に走っているのですから、イエスさまがこれを「強盗の巣である」と仰るのは当然です。
祭司たちの目には、神殿に詣でる人々がお金そのものに見えていたのかもしれません。神殿は金儲けの場となっていました。イエスさまは神殿を本来の姿へと返されます。
異邦人の庭には目の見えない人や身体の不自由な人たちが集まっていました。彼らは神殿の中枢に入ってはならないものとされていました。イエスさまは御側近くに寄って来る彼らを癒されました。神さまは全ての人を招いておられる。とりわけ苦しみ、悩む者を招いておられると、御自身のなさりようを通して示されました。祭司たちは異邦人や障害を持つ人々を祝福の外にある者と見做して神殿から遠ざけましたが、イエスさまは、異邦人や苦しみを負う者たちを招き、神さまに近付くための道を啓かれました。
癒してもらった人々、それを見ていた人々は口々にイエスさまに叫びます。ダビデの子は救い主の称号であり、ホサナとは「憐れんでください」「私たちを御救いください」という意味の言葉です。この方であれば自分たちを救って下さるという期待の言葉であり、この方こそ救い主であるという告白でもあります。
これを聞いた祭司長たちは腹を立て、イエスさまに問います。
「子どもたちが何と言っているか聞こえるか」
これは抗議でしょう。イエスさまは詩編を引用してお答えになります。
「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた。」
この御言葉には続きがあります。
「あなたの天を、あなたの指の業を私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」
ここから読み取れるのは、人間に対する神さまの配慮であり、限りない愛です。イエスさまは詩編を通して祭司長たちを諭し、目を啓こうとされたのです。神さまは限りなく人を愛しておられる。そこには何の隔ても無い。あなたたちは神殿を訪れる人々に、それをこそ伝えるべきだし、神殿は人を愛し、癒す場であるべきだと。
神殿は人間の欲望を満たすための場ではありません。信仰は人を思い通りに操るための手段ではありません。聖書の御言葉は人を選別するためにあるのではありません。これらは全て、人を招き、神さまに近付かせ、癒すためにあるのです。赦すためにあるのです。愛するためにあるのです。
イエスさまは私たちと神さまとの間にある隔てを取り除けて下さいました。これに応えて私たちもまた、自分の内に設けた隔ての壁を取り除けます。神さまと私たちとの間にある隔て、人と自分との間にある隔てを取り除けます。そして、共に主の食卓を囲み、共に恵みに与り、これを喜ぶのです。
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