2025年2月9日
マタイによる福音書 13:10-17
「たとえの裏側」
福音書記者マタイは、イエスさまの御教えを記録するにあたり、それらを五つのグループに分けてまとめました。一つ目は山上の説教、二つ目は10章に収められている弟子たちへの教え、今日読まれた13章にある喩えを用いた説教、18章には天の国で一番偉い者についての教えがあり、最後に終末の予告がなされています。
13章には喩え話が大小合わせて6つ収められています。これらの喩えはどれも、聴き手の身近な出来事、生活の中で遭遇する場面を用いて天の御国をイメージさせようとしています。ここで言う天の御国とは、私たちが地上での歩みを終えた後に迎え入れられる天国ではありません。神さまの御力が私たちに、どのようにして働くか、つまり神さまの御支配を「天の御国」という言葉で言い表しています。
喩えを用いた説明は、聴衆にとっては抽象的な説明をされるよりもイメージしやすかったでしょう。一方で喩えを用いる理由を弟子たちがイエスさまに問うと、イエスさまは「あの人たちには天の国の秘密を悟ることが許されていないからである」と答えられます。実に不思議な答えです。分かり易くするために喩えを用いながら、同時に分かりにくくするために喩えを用いられると仰るのです。
私の説教は説明的だと思います。その言葉が編まれた背景や、言葉の持つ意味合いなどを説明する一方で、それを生活の中の風景に展開するような、いわゆる例話を用いません。また、答えを提示しません。白百合幼児園の子どもたちへの説教は、全く違います。むしろ、例話が中心で、聖句が伝えようとする答えそのものを語ります。それが聖書の御言葉とどう繋がるのかについては軽く触れるか触れないか程度です。説教の目的が違うからです。
子どもたちには直截に答えを提示するとともに、聖書の御言葉と自分たちの生活の間にある繋がりに疑問を持ってもらいたいのです。さっき、チャプレンは聖書を読んだ後に、こういう話をしたけれど、なぜそうなるのだろうか。チャプレンは聖書の御言葉の答えを話した。それはわたしの、僕の生活の中でも見られる光景だけれど、どうして聖書がわたしたち、僕たちの生活に答えを出すのだろうか。そのような疑問を持ってもらいたいと願っています。
皆さんには、その逆の働きかけをしています。皆さんには、聖書の御言葉を通して神さまが示してくださっている答えを、御自身で見付けていただきたいのです。私の乏しい経験の中に聖書の御言葉を落とし込んで語ってしまうと、それは聖書の御言葉が提示する答えを限定してしまうのではないかと危ぶむから、私は答えを提示しません。皆さんは既に聖書の御言葉との直接の関係にあるのですから、少なくとも自分の足で歩こうとする姿勢を求めたいのです。
それは、信仰の自主性であり、それこそ信仰の自由であると私は考えます。
ただ、残念なことに人間には「分かっていることしか分からない」という傾向があります。それでは、いつまで経っても神さまの御心の深みは理解できません。だから、わずかに、大まかにではありますが、私なりの答えを添えています。説教は添え物に過ぎません。最も大切なのは、聖書の御言葉と直接の関係にあるとの自覚をあなた自身が持つことです。
また、人間には「分かりたいと思っていることしか分かろうとしない」という傾向もあります。神さまの御言葉を、自分の分かる範囲でしか分かろうとしない、自分の理解したいようにしか理解しないという癖が誰にでもあります。その癖は、その人に与えられた使命によるのかもしれません。その使命は大切です。しかし、別の場面ではそれが足枷や躓きの石となってしまう可能性もあると承知しておかなければいけません。
私が属している、ある委員会で集会を行いました。集会の最後に、別の委員会の人がアピールをすると言うので聞いてみたところ、最近の政治の傾向に対して反対する意見を、インターネット上で募っているので協力して欲しいとの依頼でした。
私が所属している委員会は、政治的活動からは距離を置いています。それは、その委員会の本来の活動目的の妨げになりかねないからです。私たちは、あらゆる立場を超えて人々に働きかけたいと願っているので、私たちの方から人を選んでいるかのような誤解を与えかねない要素、この委員会は自分とは違う考えを持つ人々が集まっていると誰かが勘違いをしかねないような要素は可能な限り排除しているのです。
これは、どちらが正しいというわけではありません。それぞれの姿勢の違い、神さまにお仕えする方法の違いでしかありませんが、よその庭に入り込んで自分の流儀を押し通そうとするのは誤りです。それは、よその群れ、よその家の信仰の自由を侵す行いです。主張したいのであれば、自分の庭で行うべきです。庭と庭の間は自由に行き来できるようにしてあるのが好ましいでしょう。そうすれば、自分とは違う視点を持つ人たちが居て、その人たちの言葉を聞くうちに、それが自分にも関係していると感じられたならば、その言葉は私たちの視野を広げてくれるでしょう。
別の委員会が主催した集会でも、似たような出来事がありました。集会の終わりに、チラシを配っていた人が私のところにもやってきて、チラシの説明をしようとなさったのです。私は冒頭の部分だけを聞いて、「政治的活動とは距離を置いていますので」と、チラシを遠慮しました。すると、その方は「政治的活動かなあ…」と首を傾げながらつぶやいていましたが、チラシのタイトルには「九条云々」とありました。これが憲法第9条を指しているのであれば、政治以外の何ものでもありませんよね。この方にとっては、憲法第9条はもはや信仰なのかもしれません。憲法第9条が偶像化されている危険性すらあります。憲法に限らず、規則は人の便宜のために作られている、人に仕えるために作られているに過ぎないという、本質を忘れてはなりません。
イエスさまは喩えを用いて神さまの御心を分かり易く説くと同時に、喩えを用いて謎を示されました。この謎こそが、私たちに信仰の自由が与えられているというしるしであり、また私たちは信仰を偶像化しかねないという危険を持っているという警鐘でもあります。私たちには、良く聞き、良く見る姿勢が求められる一方で、悟った気になってはならないとの警告が与えられているのです。
神さまの御心の深みには底がありません。無限に広く深いのです。私たちが自分の知恵を全てであるかのように考えて、神さまの御心を型に嵌めてしまうと、私たちは躓き、罪の深みの方に沈んでしまうのです。
喩えの裏側には、私たちに信仰の自由と信仰の責任が与えられているというメッセージが隠されています。私たちは信仰者として、聖書を通して神さまが語られるメッセージを追い求め続けるのです。
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